山岸村(読み)やまぎしむら

日本歴史地名大系 「山岸村」の解説

山岸村
やまぎしむら

[現在地名]三国町山岸

九頭竜くずりゆう川下流の西岸に位置し、南東下野しもの村。慶長三年(一五九八)の越前国下之村山岸村御検地帳(林家文書)があり、同帳によれば総石高五三六・一九石、田方一八町三反三畝六歩、畑方(屋敷を含む)一九町四反二畝二二歩で屋敷地五二ヵ所が記される。同一一年頃の越前国絵図では泥原新保どろはらしんぼ浦に含まれる。「越前地理指南」に「二ケ所居ス」とあり、二集落に分れていたようだ。枝村として「酒屋」があった(越前国名蹟考)。福井藩領。

正保郷帳では五六八・八六八石に増加したが、享保一六年(一七三一)の内検小割帳(林家文書)や、安政六年(一八五九)の越前国福井領郷村高辻帳(松平文庫)には四三六・一〇三石と記されている。

山岸村
やまぎしむら

[現在地名]盛岡市山岸一―六丁目・山岸・紅葉もみじおか下米内しもよない

盛岡城下北東端の御持筒おもづつ町の北に位置し、西は三割みつわり村・上田うえだ村。中津なかつ川が南端を限り、御持筒町から北へ延びる小本おもと街道(野田街道)が通る。寛永一八年(一六四一)の検地高二九二石余(「検地高目録写」県立図書館蔵)正保国絵図に山岸村、一三一石余とある。天和二年(一六八二)の惣御代官所中高村付には蔵入高二二七石余とあり、七ヵ年平均の免三ツ六分九厘六毛。

山岸村
やまぎしむら

[現在地名]富山市山岸など

神通川下流左岸、呉羽山くれはやま丘陵の北端はつヶ山の東方に位置。西側をうしくび用水が流れ、対岸は百塚ひやくづか村。村名は安養坊あんようぼう(呉羽山)を臨む神通川河岸に位置することに由来するという(婦負郡志)婦負郡に属し、寛永一六年(一六三九)以降富山藩領。正保郷帳では高二三七石余、畑方のみ一五町八反余。承応四年(一六五五)の村御印では、草高一二四石余(蔵入)・免二ツ九歩二厘、小物成銀一〇匁四分(村々御印物等書上)

山岸村
やまぎしむら

[現在地名]輪島市山岸町

宅田たくだ村の南、河原田かわらだ川下流西岸の段丘に立地。「吾妻鏡」建保六年(一二一八)一〇月二七日条に、大屋おおや河原田において没したとみえる長谷部(長)信連の墓と伝える中世墳墓がある。文明八年(一四七六)六月六日の重蔵宮講堂建立棟札拓本(重蔵神社文書)に「鳳至山岸」の大工与次郎吉久がみえる。

正保郷帳に村名がみえ、高三五六石余、田方二一町三反余・畑方二町三反余、新田高三一石余、田方二町余。承応三年(一六五四)の村御印の高三八四石余、免四ツ九歩(能登奥両郡収納帳)。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の高四〇三石、免六ツ三歩、小物成は山役一一七匁(三箇国高物成帳)

山岸村
やまぎしむら

[現在地名]弥彦村山岸

西にし川西岸の井田いだ丘陵の南西麓にあり、西を川が流れる。南西は村山むらやま村。正保二年(一六四五)井田村の渡辺五助により開発され、初め井田村千石せんごく新田とよばれ、寛文六年(一六六六)山岸と改めたという。元禄郷帳に井田村枝郷として山岸新田村とみえ、高二一二石四斗余。初め与板藩領であったらしく、元禄一五年(一七〇二)幕府領、享保九年(一七二四)から元文五年(一七四〇)まで新発田藩預所、幕末には与板藩領。弥彦宿の助郷を勤めた(天保七年「弥彦宿助郷村賃銭割増願」高橋文書)

山岸村
やまぎしむら

[現在地名]飯山市大字山岸

虚空蔵こくぞう山より延びた丘陵を背に立地し、前面はかつてたる川の流路でできた広い沖積耕地で、東は上木島かみきじま(現下高井郡木島平村)、西は其綿そのわた村に接する。

中世、高梨氏支配の頃の記録には「岸分、当知行赤川駿河守」(高梨文書)とあるが、寛永九年(一六三二)一〇月六日の検地帳には「持塚村」(坂原文書)と記されている。

山岸村
やまぎしむら

[現在地名]可児市広見ひろみ

伊川いかわ村の西、可児川南岸にある。伊香いこう七ヵ村の一。元禄郷帳に村名がみえ、旗本中川領。明治二年(一八六九)村明細帳によれば田一一町八反余・畑二町一反余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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