山元春挙(読み)やまもとしゅんきょ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「山元春挙」の意味・わかりやすい解説

山元春挙
やまもとしゅんきょ
(1871―1933)

日本画家。滋賀県大津市に生まれる。本名金右衛門。円山(まるやま)派の野村文挙(ぶんきょ)、森寛斎(かんさい)に学ぶ。1890年(明治23)の第3回内国勧業博覧会で褒状を受けるなど早くから頭角を現し、京都画壇において竹内栖鳳(せいほう)、菊池芳文(ほうぶん)らと並び称された。1907年(明治40)の第1回文展から審査員、9年には新設の京都市立絵画専門学校教授。17年(大正6)の帝室技芸員を経て19年に帝国美術院会員となった。円山派伝統西洋の遠近法や写実描法を加味した新風で知られ、代表作は『法塵一掃(ほうじんいっそう)』『雪松図(せっしょうず)』『塩原の奥』など。また画塾早苗会(さなえかい)を主宰し、多くの後進を育てた。京都で没。

[二階堂充]

『内山武夫解説『現代日本絵巻全集5 山元春挙・橋本関雪』(1984・小学館)』『原田平作解説『山元春挙展』図録(1985・滋賀県立近代美術館、京都新聞社)』

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百科事典マイペディア 「山元春挙」の意味・わかりやすい解説

山元春挙【やまもとしゅんきょ】

日本画家。滋賀県生れ。本名金右衛門。野村文挙,森寛斎に学ぶ。20歳の時京都絵画共進会を作って審査員にあげられるなど早くから才能を現し,各種の展覧会入選。1907年文展審査員,1909年京都絵画専門学校教授となる。円山派の伝統を継ぎつつ近代的感覚をとり入れ,竹内栖鳳と並んで明治・大正期京都画壇の重鎮として活躍した。代表作《塩原の奥》《拾骼拾髄》など。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「山元春挙」の意味・わかりやすい解説

山元春挙
やまもとしゅんきょ

[生]明治5(1872).11.24. 大津
[没]1933.7.12. 京都
日本画家。幼名,寛之助のち金右衛門。別号,円融斎,一徹居士。野村文挙,森寛斎について円山四条派を学び,写実性豊かな風景画をもって京都画壇で頭角を現した。 1891年竹内栖鳳,菊池芳文らと青年画家懇親会を興し,早苗会を主宰。京都市立美術工芸学校教諭,京都市立絵画専門学校教授。 1917年帝室技芸員,19年帝国美術院会員となる。また諸外国の展覧会に出品,26年フランス政府からレジオン・ドヌール勲章を受章。主要作品,『塩原の奥』 (1909,東京国立近代美術館) ,『富士山日乃出松に巌山水図』 (16,宮内庁) ,『義士隠栖』 (21,同) ,『捨骼拾髄』 (27,東京国立近代美術館) 。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「山元春挙」の解説

山元春挙 やまもと-しゅんきょ

1872*-1933 明治-昭和時代前期の日本画家。
明治4年11月24日生まれ。野村文挙,森寛斎に円山派をまなび,近代的な風景画に秀作をのこす。文展審査員,京都市立絵画専門学校教授をつとめ,大正8年帝国美術院会員。昭和8年7月12日死去。63歳。滋賀県出身。本名は金右衛門。別号に円融斎,一徹居士。作品に「塩原の奥」「雪松図」など。

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世界大百科事典(旧版)内の山元春挙の言及

【明治・大正時代美術】より

…ただし,この新たな没線(もつせん)描法は揶揄をこめて朦朧(もうろう)体,縹緲(ひようびよう)体と呼ばれた。しかし日本美術院の新美術運動は京都の日本画家に大きな刺激を与え,菊池芳文(1862‐1918),竹内栖鳳,山元春挙(1871‐1933)らも西洋画の写生をとり入れ,日本美術院に呼応して新機運の打開に努めることとなる。また結城素明(1875‐1957),平福百穂,島崎柳塢(りゆうう)(1856‐1938)らは東京で无声会(むせいかい)を結成し(1900),西洋画の写生を研究して自然主義的な新しい日本画をもたらすことになる。…

※「山元春挙」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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