山下村(読み)やましたむら

日本歴史地名大系 「山下村」の解説

山下村
やましたむら

[現在地名]加西市山下町

谷口たにぐち村の南に位置し、中播丘陵の西部に立地する。西は神東じんとう北山田きたやまだ(現姫路市)。姫路と北条ほうじようを結ぶ道が通る。古くはいち庄余田しようよでん村とよばれたといい(「加西郡荘郷録」横田家文書)、中世は国衙別納一〇ヵ所の一つであった。永禄年間(一五五八―七〇)の打続く戦乱により大半が荒地となったが、三木別所氏の滅亡後、甲州武田氏の浪人山下某が来住し、宿しゆく殿とのひがしの三ヵ村を一村に合せ山下村と称したという(同文書)。慶長国絵図に村名がみえる。江戸時代の領主の変遷は延宝六年(一六七八)までは窪田くぼた村と、それ以後は市場いちば村と同じ。

山下村
やましたむら

[現在地名]足利市山下町・鹿島町かしまちよう

大岩おおいわ山から南西に派生する山丘が北部に連なり、南部は平地で、南東流する渡良瀬川が南を限る。西は大前おおまえ村。応永一三年(一四〇六)八月一九日の関東府奉行人連署奉書(鶏足寺文書)に「足利庄山下郷」とあり、「足利長尾顕長家来」に当村の者として岡田源八郎(永八〇貫文)・山下主膳(永五〇貫文)・小菅縫殿之助(永五〇貫文)など六名の名がみえる。寛永一〇年(一六三三)には下総古河藩領、正保元年(一六四四)分家の土井利長領、のち幕府領、元禄一一年(一六九八)幕府領と旗本富田領の二給、宝永二年(一七〇六)から足利藩領と旗本富田領の二給となり、幕末に至る。

山下村
やましたむら

[現在地名]矢祭町山下

高野こうや村の南、久慈くじ川支流の小田おだ(滝川)南岸の山間に立地。字下河原しもがわらに縄文時代の遺跡、字柴立しばだてに中世の山城跡である物見ものみだけ(物見峠館)跡がある。「白河古事考」には斑目十郎広基が居城したとある。「白河関物語」にみえる関郷渡せきごうど城は、同館をさすと思われる。正保郷帳に村名がみえ高一二五石余、うち田八二石余・畑四二石余。元禄郷帳では高一一四石余、枝郷のおぎ村の高一一石、栗生くりゆう(現福住)の高二一石。水戸藩領の小生瀬こなませ村・大野おおの(現茨城県大子町)からの道が通り、寛延三年(一七五〇)当村の問屋が小生瀬村などからの荷を、水戸街道を通さずに高野村・関岡せきおか村、植田うえだ(現塙町)経由で伊香いこう(現同上)に継送りしたため、水戸街道の戸塚とつか東舘ひがしだて下関河内しもせきごうど・上関河内・おおぬかりの五ヵ村問屋から訴えられた。

山下村
やましたむら

[現在地名]宇佐市山下

豊前道を四日市村の手前猿渡さるわたり村の南、伊呂波いろは川の中流域に展開する。東は四日市村、西は赤尾あかお村、南は元重もとしげ村。宇佐宮弥勒寺領山下保の遺称地。一方、当村を含む伊呂波川の中・上流域は横山よこやま浦ともよばれた。元応三年(一三二一)二月二日の弥勒寺公文所定文写(今仁恕子文書)に山下保給田としてみえる「一所居屋敷北ノ屋敷 一所太郎丸屋敷」はそれぞれ現在の字居屋敷いやしき太郎丸たろうまるのことと思われる。天正一五年(一五八七)黒田孝高領、慶長五年(一六〇〇)中津藩領となるが、元和六年(一六二〇)中津藩主細川氏が主城を豊前小倉に移したため小倉藩領となる。

山下村
やましたむら

[現在地名]阿久根市山下

西目にしめ村の北東に位置し、西は波留はる村。中世の莫禰あくね城跡があるしろ(愛宕山)を中心に発達した村で、江戸時代初期には阿久根外城(阿久根郷)の地頭仮屋が置かれており、中世以来莫禰院・阿久根郷の中心地として栄えた。しかし元禄三年(一六九〇)に仮屋は波留村に移転、郷の中心地という地位を同村に譲った。「鹿児島県地誌」は字地として山下・久保下くぼした大田おおた弓木野ゆみきの尾崎おさきをあげる。慶長四年(一五九九)一月九日に島津家久に与えられた豊臣秀吉五奉行連署知行目録(旧記雑録)にはとうや村(遠矢)高一六三石余、かたの村(片野)・山下村高三四六石余、太田村(大田)・へこ村高二三四石余、へほき村・そのた村(園田)高一七九石余などがみえる。

山下村
やましたむら

[現在地名]鹿島町山下

北東流から南東流へと湾曲しながら流れを変える真野まの川の南岸に位置し、対岸は東から北東が横手よこて村・角川原つのがわら村、北は御山おやま村に接する。南東にある枝郷浮田うきた村を明暦二年(一六五六)に分村(相馬藩政史)天保郷帳には「古者 山下村・浮田村・安倉新田三ケ村」と注記される。延文三年(一三五八)一一月二〇日の相馬親胤譲状(相馬文書)によると、千倉ちくら庄内「仁木田村、安倉村」などが親胤の子息胤頼に譲与されているが、安倉やすくら村は当地内の字安倉を遺称地とすると考えられる。

山下村
やましたむら

[現在地名]龍野市揖保町山下いぼちようやました

大道だいどう村の南に位置し、揖西いつさい郡に属する。西は揖保川を挟んで野田のだ(現揖保川町)、東は揖東いつとう上沖かみおき村。元弘四年(一三三四)正月一九日の後醍醐天皇綸旨(大徳寺文書)に「浦上庄内栄・山下部・熊代等村」とみえ、後醍醐天皇は前年一二月一日に下総国葛西かさい御厨(現東京都葛飾区など)の替地として京都大徳寺宗峰妙超に与えた浦上うらかみ庄内の当村などを大徳寺領として安堵している。

山下村
やましたむら

[現在地名]平塚市山下

高麗寺こうらいじ山(現高麗こま山)を南に望み、東境を花水はなみず川が流れる。淘綾ゆるぎ郡に属し、東は高麗寺村(現中郡大磯町)、西は万田まんだ村、南は高根たかね村、北は大住おおすみ河内こうち南原みなみはら両村に境を接する。南境を波多野はだの道が通る。天文一二年(一五四三)九月吉日の松田六郎左衛門尉連署証状写(県史三)によれば「山下郷寺山之内田壱段同畠小」が六所ろくしよ神社(現大磯町)に鍵取免として寄進されている。

山下村
やましたむら

[現在地名]玖珠町山下

太田おおた村の西に位置する。元和八年(一六二二)の走り百姓帳(松井家文書)に村名がみえ、慶長八年(一六〇三)小倉藩領の宮園みやぞの(現耶馬渓町)の百姓三人が当村に、元和三年にも山移やまうつり(現同上)より三人の百姓が逃げてきている。正保郷帳に村名がみえ、田高二二〇石余・畑高一二二石余で古後こご郷に属し、柴山・茅山有、日損所と記す。元禄郷帳では高一千二石余。「三郡記」では一千九五石余。明治六年(一八七三)五月徴兵反対の血税騒動(山下騒動とも)が起こった。地内伊勢堂に集まり徴兵取消祈願などをしていたが、流言が飛交い、同月二二日には当村の一〇〇余人と太田村・綾垣あやがき村民など約三〇〇人が巡回中の県権令に直訴しようと四日市よつかいち村に押掛けたが、戸長らの説諭で解散。

山下村
やましたむら

[現在地名]亀山市山下町

木下このした村の東に続く鈴鹿川南岸の村。神戸かんべ七郷の一。集落は山丘の麓に立地、ために山本やまもととも称した(五鈴遺響)。字さわには前方後円墳があり、円筒・形象埴輪が出土した。中世には関谷せきだに二四郷の一に数えられ(九九五集)、関氏およびその与力である小野・岩間氏が居館を構えていた。永禄五年(一五六二)の永明寺領川上祠堂納(鈴鹿郡関町瑞光寺蔵)には、三郎二郎・孫三郎・源五郎方・新三郎(常住方納之分)、新五郎(祠堂方麦大豆納)、左衛門二郎(懺摩方)などの山下在住の作人名がみえる。

山下村
やましたむら

[現在地名]岱明町山下

北は野口のぐち村、東は小浜こばま村・滑石なめいし(現玉名市)、南は高道たかみち村、西は中程なかほど村・土器屋かわらけや村と接する。慶長九年(一六〇四)九月の検地帳によると田一四町三反四畝余・畠屋敷一五町二反六畝余・屋敷筆数二七、分米二八五石四斗余。同一三年の検地帳では田二九町七反八畝余・畠屋敷二九町八反二畝余・屋敷筆数四八、分米六一三石三斗余、家数九三・人数一五一、牛馬三〇。近世は坂下手永に属する。明和三年(一七六六)の桑実蒔付結果報告(岱明町地方史)によると同元年に桑苗五〇本が配布され、結果は生育とある。幕末には寸志上納郷士二がいた(「戸籍先祖帳」県立図書館蔵)。「肥集録」には小村に喜佐貫を載せる。文化八年(一八一一)の坂下手永略手鑑によると高六八六石五斗余、田三二町九反三畝・畑二七町二反八畝余。

山下村
やましたむら

[現在地名]三芳村山下

大学口おおがくち村の北西に位置し、西の千代せんだい村境を平久里へぐり川が流れる。慶長二年(一五九七)の安房国検地高目録のきた之郡内に知行方分として村名がみえ、高二二七石余(うち田一五六石余)。正保郷帳ではへい郡内で、旗本三枝領。享保一二年(一七二七)の安房国村々助郷請帳(岩崎家文書)および元文村高帳では幕府領となっている。天保一四年(一八四三)より高一二一石余が府中ふちゆう村と同じ変遷をたどり、ほか一〇八石余は館山藩領となる。寛保三年(一七四三)の年貢割付状(山下区有文書)では高二三〇石余で、元文四年より延享四年(一七四七)までは定免となっている。

山下村
やましたむら

[現在地名]熊本市中島なかしま

白川支流のよけ川の北の低湿地にあり、対岸は横手手永の牟田口むたぐち(現飽託郡飽田町)、東は迎五町むかえごちよう村、北は中島村に接する。郷帳には記載されないが、慶長一二年(一六〇七)の検地帳では、田方三〇町余・畠方一六町八反余、分米五二一石七斗余で、竈数二四・家数四五、男七六・女五一、牛二一、蜜柑二を記載する。寛永一二年(一六三五)の地撫帳では、島五郎左衛門手永に属し、庄屋のほか頭百姓四を記載し、当竿前は田一八町八反余・畠一一町三反余で、このほか新潟として田一町六反余・畠二町三反余とある。

山下村
やましたむら

[現在地名]芦北町花岡はなおか

佐敷さしき町から南へ佐敷村を経て、薩摩と人吉ひとよしへの分岐点より人吉方面へ向いた地域。東に井樋口いびのくち村、南東に見附みつけ村が続く。佐敷手永に属し、「国誌」に高四九石四斗余とあり、それより少し古い正徳(一七一一―一六)頃のものと思われる表題破損の文書(伊藤家蔵)に同高が記され「竈十八 百三人」とある。明治三年(一八七〇)の佐敷郷御通筋御手鑑帳(芦北図書館蔵)に「御遠見 一山下村 御通筋御左三町余入込 高五拾七石九升 免五ツ三分四朱 戸数弐拾九軒 一人数百弐拾三人 内男六拾六人 女五拾七人 一馬拾九疋 一郷士五人」とある。

山下村
さんげむら

[現在地名]加茂町山下

東は河井かわい村、西は知和ちわ村、北は阿波あば(現阿波村)に接し、中央を東西に物見ものみ川が流れる。弘治二年(一五五六)九月二〇日の黒岩吉弘感状(美作古簡集)によれば、同元年一〇月一四日の「山下合戦之時」に中西孫九郎は手柄を立てている。正保郷帳に高二五石余、うち田方一四石余・畑方一一石余とある。元禄一〇年(一六九七)美作国郡村高辻帳では改出高一二石余・開高一一石余。「東作誌」では六六石余で、本田畑高三八石余・新田畑高一一石余、新開田畑高一六石余、家数一三・人数四三。

山下村
やましたむら

[現在地名]松阪市山下町

豊原とよはら村の南にあり、櫛田くしだ川の左岸にある。西は上川うえがわ村に続き、南は安楽あんらく村と隣接する。もと和泉いずみと称し、神宮領に属し、「神鳳鈔」に「内宮泉御薗一斗、九月」とある。元和元年(一六一五)藩主藤堂和泉守高虎のとき「領主ノ称ヲ避テ後世ニ更」(五鈴遺響)、山下村と称するようになったという。貞治年中(一三六二―六八)に仁木義長に押領され、永享年中(一四二九―四一)に北畠氏の所領となる。

山下村
やましたむら

[現在地名]姫路市林田町中山下はやしだちようなかやました

松山まつやま村の南西に位置し、揖東いつとう郡に属する。南は六九谷むくだに村。江戸時代初期には六九谷村に含まれた。元禄郷帳に村名がみえ、六九谷村枝郷と注記される。高一二五石余。領主の変遷は大堤おおづつみ村と同じ。天保郷帳にも山下村高一三七石余とあるが、「揖保郡志」の林田藩領の村々が書上げられたなかに上山下村・中山下村・下山下村とある。

山下村
やまのしたむら

[現在地名]明石市大久保町大窪おおくぼちようおおくぼ

大窪村の内にあり南は中番なかのばん村。野々上組に所属。古くは大窪村の一部であったが、のち分村して成立したという(明治初期大久保七ヶ村地誌編下調書)。正保郷帳に山下村とみえ、田高四三九石余・畑高二四石余、松山あり。元禄年間(一六八八―一七〇四)の「采邑私記」では新田村として扱われ大窪新田村と記載される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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