居留地新聞(読み)きょりゅうちしんぶん

改訂新版 世界大百科事典 「居留地新聞」の意味・わかりやすい解説

居留地新聞 (きょりゅうちしんぶん)

本来は,居留地の人々を対象として居留地外国人の発行した新聞を意味するが,そのほか,居留地外国人が治外法権を利用して発行した日本人対象の日本語新聞も,居留地新聞と呼ばれる。居留地新聞としては,1861年(文久1)6月長崎で創刊された英字紙《ナガサキ・シッピング・リスト・アンド・アドバタイザーThe Nagasaki Shipping List and Advertiser》が最も早く,週2回刊で同年10月までに28号を発行した。発行者のイギリス人貿易商ハンサードA.W.Hansardは,同年11月には横浜で後継紙《ジャパンヘラルドThe Japan Herald》を創刊している。《官板バタヒヤ新聞》の創刊が翌62年であったから,ハンサードの新聞は本邦最初のものということになる。居留民を対象とした外字紙は幕末だけで10種類を超えるが,いずれも小規模で,最有力の《ジャパン・ヘラルド》ですら300部くらいであったという。しかし,これらの新聞は当時の日本人にとってきわめて貴重な情報源であったので,幕府洋書調所の翻訳を筆写したものが全国的に流布した。居留地外国人が発行した日本語新聞は,このような状況に促されて出現したのである。これには,1864年(元治1)浜田彦蔵(アメリカ籍)が創刊した《海外新聞》をはじめとして,67年(慶応3)の《万国新聞紙》《倫敦新聞紙》,68年(明治1)の《各国新聞紙》《横浜新報もしほ草》,72年の《日新真事誌》などが知られている。いずれも英語に堪能な日本人協力者を得て発行されていた。協力者としては,《横浜新報もしほ草》の岸田吟香,《万国新聞紙》の大槻文彦星亨など後年の著名人が少なくなかった。しかし,外国人が日本語新聞を発行することは75年の新聞紙条例で禁止となる。

 居留地新聞は,外字紙,邦字紙を問わず,忌憚のない言論と情報の提供によって変革期の日本に大きな影響を与えた。また,外国勢力を背景としていたので強い発言権をもつことがあった。〈慶応元年にヘラルドの一回の論説で池田筑後守の閉門が解除された〉とは,当時の主筆であったJ.R.ブラックが書き残しているところである。逆に政府意向を海外に宣伝する手段ともみられていたらしい。73年《ジャパン・メールThe Japan Mail》の政府買上げおよび海外への頒布は,公文書にも記載されている事案で,75年まで継続実施された。居留地新聞には,ブラックがイギリス本国に向けて日本の風物を伝えようとした1870年の《ファー・イーストThe Far East》のような趣味的な出版もあった。これも居留地新聞にはちがいないが,方向は逆である。これに対して,1867年の《よのうはさ》,73年の《大西新聞》のように,それぞれパリやロンドンから日本の購読者を予定対象として発行された新聞がある。居留地外国人の発行した日本語新聞とその目的が共通しているので,これらは居留地新聞の一変種とみることができる。

 居留地新聞は,明治以降の日本の近代化,マス・メディアの発達にともなって急速に本来の外字新聞に収斂(しゆうれん)していった。居留地自体の廃止は99年であったが,居留地新聞としての実質ははるか以前に失われていたのである。
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