尾山村(読み)おやまむら

日本歴史地名大系 「尾山村」の解説

尾山村
おやまむら

[現在地名]角田市尾山

亘理わたり丘陵の西麓にあり、北を半田はんだ川が西流、南から北西へ大谷おおたに川が流れる。北は藤田ふじた村、南は島田しまだ村、西は枝野えだの村に接する。北へ柴田郡槻木つきのき宿(現柴田町)に向かう道が通り、東は馬船まふね峠を越えて亘理郡山下やました宿(現山元町)へ、明通あきどおし峠を越えて同郡亘理宿(現亘理町)へ通じる。天文七年(一五三八)の段銭古帳に「おやまかう」とみえ段銭二〇貫二五文。また段銭一四貫六四〇文の「大たにかう」は当村南方の大谷付近に比定されている。中心部の金津かなづは天正期(一五七三―九二)から亘理方面へ向かう要地で、近世には横町よこまち荒町あらまち立町たちまちからなる金津宿となった。

正保郷帳には尾山宿とみえ田一二六貫九八八文・畑一五貫七七二文、水損・旱損と注され、ほかに新田三七文とある。元禄年中(一六八八―一七〇四)の除屋敷控帳によれば、大条権左衛門の除屋敷一・家中除屋敷五六、佐々左覚の除屋敷一・家中屋敷八、大立目弥覚の屋敷一、飯野弥市右衛門の屋敷一・家中屋敷二、及川弥左衛門・坂下惣右衛門・佐々弥五助・佐々惣十郎・大石久八郎の屋敷各一。

尾山村
おやまむら

[現在地名]御坂町尾山

甲府盆地東端の山麓かね川の扇状地に位置し、西は蕎麦塚そばつか村。天正一〇年(一五八二)徳川家康により当地と黒駒くろこま合せて二二貫文の地が小宮山囚獄助に与えられ(同年八月九日「徳川家康印判状写」譜牒余録)、市川以清斎(元松)にも「小山之郷」三〇貫文などが本領であることを理由に安堵された(同年一一月一七日「徳川家印判状写」記録御用所本古文書)。同一一年五月一三日の徳川家奉行連署神領証文(八代謹蔵氏所蔵文書)に二宮領として当地の七貫八〇〇文があげられており、「天正年中二宮祭礼帳」には小山の地頭萩野新五郎の名がみえ、毎年一月一九日の山宮祭を負担している。なお、同一一年三月二八日の徳川家康印判状写(譜牒余録)には「尾山」と記され、黒駒と合せて二二貫文などが本領として植原東市佑に安堵されている。

尾山村
おやまむら

[現在地名]高月町尾山

洞戸ほらど村の東、高橋たかはし山南麓山地と東境を南流する高時たかとき川右岸平地に立地。村内井明神いんみようじは高時川と支流杉野すぎの川が山間部から平野部へ出る谷口で、この付近まで高時川の舟運があり対岸の石道いしみち(現木之本町)へ渡船や仮橋で渡る。付近には大井ほかの井堰の取水口があり、かつて井明神社が祀られていた。坪地名のいちつぼつぼがあり、近年まで条里遺構がみられた。中世には富永とみなが庄に含まれ、応永二九年(一四二二)義母を殺害した孫藤次、乱行罪を問われた尾山郷の大夫公の二名が、庄内先規にしたがい断罪されている(同年六月二四日・八月二二日「法橋兼全奉書案」井口日吉神社文書)

尾山村
おやまむら

[現在地名]月ヶ瀬村大字尾山

名張川北岸、だけ村の東北に立地。慶長郷帳では村高一五五・七三石、御番衆領。元和元年(一六一五)郡山藩(水野勝成)領となり、同藩の二割半無地高増政策で村高は一九五・九二石となった。延宝七年(一六七九)幕府領、元禄一五年(一七〇二)川越藩(柳沢吉保)領、宝永元年(一七〇四)幕府領となり、享和元年(一八〇一)再び郡山藩(柳沢保光)領に編入された。

尾山村
おやまむら

[現在地名]黒部市尾山

十二貫野じゆうにかんの台地と布施ふせ川との間に位置し、東は阿弥陀堂あみだどう村、西は朴谷ほおのきだに村。寛永一六年(一六三九)富山藩領、万治三年(一六六〇)から加賀藩領。正保郷帳では高三九七石余、田方二六町一反余・畑方二反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高二五〇石、免五ツ五歩、小物成は山役二二匁・蝋役六匁・鱒役一匁・鮎川役二匁(三箇国高物成帳)。天保一一年(一八四〇)の草高・免ともに変わらず(「高免帳」杉木家文書)。同一三年安田新兵衛ら一一人と尾山村組合頭宗右衛門・同五右衛門・同七郎左衛門・惣代長百姓伝右衛門らが当村領字南別所みなみべつしよという場所の畑新開五千歩余を願出た。嘉永三年(一八五〇)までの九年間で開墾する予定であった(「御触留帳」伊東家文書)

尾山村
おやまむら

[現在地名]檜山郡江差町字尾山町

近世から明治初年まで存続した村。とまり村の北に位置し、東は山地、西は日本海に面する。小山(「蝦夷巡覧筆記」など)、大山(津軽一統志)とも記される。「津軽一統志」に「大山 家十軒」とみえる。元禄郷帳には「おやま村」、享保十二年所附・天保郷帳には尾山村とみえる。天明六年(一七八六)の「蝦夷拾遺」によると家数二〇足らず、人数三〇足らず。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報