小高城跡(読み)おだかじようあと

日本歴史地名大系 「小高城跡」の解説

小高城跡
おだかじようあと

[現在地名]小高町小高 古城城下など

東流する小高川に架かる妙見みようけん橋の北方、標高二〇メートル前後の河岸段丘先端部に築かれた平山城跡。中世の相馬氏の居城で、紅梅山浮舟こうばいざんうきふね城とも称された。現在は県指定史跡で、本丸跡に相馬小高神社が鎮座する。城跡西方の小高字堀内ほりうちには当城移住前の居館堀の内館があったが、平安末期には桓武平氏の海東小太郎成衡の五男行方五郎隆行が居住していたという(「奥相秘鑑」「東奥標葉記」など)

〔築城までの経緯とその後〕

下総国相馬郡を本領とした相馬師常(千葉介常胤の次男、相馬師国の養子)は、文治五年(一一八九)の奥州合戦の戦功によって陸奥国行方なめかた郡を与えられた(「相馬系図」歓喜寺蔵)。その後裔にあたる相馬重胤は元亨三年(一三二三)下総の地から行方郡に移住、太田おおた(現原町市)別所べつしよ館を本拠としたが、嘉暦元年(一三二六)に小高の堀の内館に入ったとされる(「相馬藩御経済略記」福島県史、「奥相志」など)。なお重胤の行方郡への移住は元亨二年で、当初から小高城に入ったとみる説もある。

元弘三年(一三三三)の鎌倉幕府滅亡後、相馬氏の惣領重胤は一族の岡田氏・大悲山氏らとともに建武政権に背いた足利方に属している。建武三年(一三三六)重胤は鎌倉を守護するが、南朝方の陸奥守北畠顕家軍勢に攻められ、同年四月に鎌倉法華ほつけ堂下で自害している(前掲相馬系図など)

小高城跡
おだかじようあと

[現在地名]麻生町小高

小高の北東部の山林の中にあり、三方水田に囲まれ、二重の深い空堀をめぐらす。現在は辺鄙な場所であるが、古代には城跡の東方に鹿島神宮への奉幣使の官道があり、交通の要所であった。

鎌倉時代に常陸大掾氏の一族行方為幹が行方城より移って当地に居住、小高氏と称して築城したことに始まる。小高氏は文永四年(一二六七)・正和五年(一三一六)・応安五年(一三七二)・応永七年(一四〇〇)などに鹿島大使役を勤めている(「鹿島大使役記」安得虎子)。また貞治四年(一三六五)二月二日、将軍足利義詮は鹿島神宮大禰宜高親の訴えにより、常陸大掾入道(高幹)に小高直幹小牧こまき村押領を停止させる御教書を下し(「足利義詮御教書案」鹿島神宮文書)、直幹は同年一〇月七日に「小牧村押領由事、無跡形次第候、彼村者直幹庶子等本所進止之間、為代々相伝之地、当知行無相違候」と返答している(「小高直幹書状」同文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報