小野保(読み)おのほ

日本歴史地名大系 「小野保」の解説

小野保
おのほ

古代の安積あさか郡小野郷(和名抄)の郷名を継承した保。のち小野六郷と称し、飯豊いいとよ谷津作やつざく田原井たわらい(田原屋)羽出庭はでにわ(現小野町域)広瀬ひろせ菅谷すがや(現滝根町域)の六ヵ郷に比定されている(正保二年「二万石三万石差別覚書」川又家文書)。建武二年(一三三五)一〇月二六日の陸奥国宣案(伊勢結城文書)に「小野保」とみえ、結城親朝が当保や白河など八ヵ所の検断職に命ぜられている。康永二年(一三四三)八月親朝は建武二年以前に与えられた知行地安堵を条件として北朝方として挙兵した。しかしその所領をめぐって問題が起きたらしく、翌三年九月京都の足利幕府に先の陸奥国宣などを提出している(同月二四日「結城文書正文目録」伊勢結城文書)。このためとりあえず安積郡を除く郡々検断職を安堵され(「畠山国氏書下」同文書)、さらに七月一六日京都での判決が下るまで当保など三ヵ所の検断職を足利尊氏から安堵されている(「吉良貞家書下」同文書)

小野保
おのほ

久兼ひさかね辺りを領域とした国衙領。久兼には小野の字名が残る。中世には国衙を介して東大寺の支配下にあった。

正治二年(一二〇〇)一一月日の周防国在庁官人置文(東大寺文書)に、牟礼令むれりように置かれた別所(のちの阿弥陀寺)の寺用料田畠として「上小乃」に田五段、「下小乃」に畠五段があったことを記す。この頃すでに上下に分れていたと思われる。国衙に近いこともあって保内には国内寺社や在庁官人などの給免田が散在していたと思われる。正中二年(一三二五)一二月二六日の留守所下文(「寺社証文」所収周防国分寺文書)によれば、法花寺免田二段が下小野保にあり、また同寺の吉祥御願のために上下両保が費用を負担している。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報