小石原村(読み)こいしわらむら

日本歴史地名大系 「小石原村」の解説

小石原村
こいしわらむら

[現在地名]小石原村小石原

大肥おおひ川の源流域に位置する山間の村で、現小石原村の北部を占める。北は嘉麻かま桑野くわの(現嘉穂町)、北東は豊前国田川郡落合おちあい(現添田町)。「続風土記」は枝村に中野(現皿山)があると記す。集落は本村のほか奥畑おくばたや西流する小石原川沿いのとうなどにあった。大肥川沿いに日田街道が通り、筑前二一宿の一つ小石原宿が設けられ、町が形成されていた。修験道の中心地彦山に隣接し、胎蔵界にたとえられる彦山から金剛界の宝満ほうまん山までの山伏峰入や行者堂・修行事跡・伝承が残る(同書)。筑肥方面の参籠者が彦山へ登山する際、小石原の宿で潔斎したという。なお山伏は彦山入山前の神事として、当地で杉の植栽を行ったといわれ、樹齢数百年の杉は行者杉とよばれる。彦山神領に勧請される大行事だいぎようじ(現高木神社)が小石原村・つつみ村の産神として祀られている(続風土記附録)。永禄一一年(一五六八)と考えられる一一月一九日付大友宗麟書状(大友家文書録/大分県史料三四)によると、宗麟は「小石原」に城を構えるよう命じている。

小石原村
こいしわらむら

面積:二九・三七平方キロ

朝倉郡の北東部に位置し、東は宝珠山ほうしゆやま村、西は甘木市、南は杷木はき町、北から東は嘉穂かほ嘉穂町と田川郡添田そえだ町に接する。英彦ひこ山登山口に位置する古処こしよ山系の山村で、村域はおおよそ南北に長い。村の中心部の地形は湖底盆地状で、小規模な高原平野である。北東部の皿山さらやま付近を源流とする大肥おおひ(鼓川)が中心部を貫いて南流し、北部を小石原川が甘木市に向かって西流する。大肥川の谷底に沿って南北に国道二一一号が走り、北部には主要地方道甘木―豊前線、添田―小石原線、南部に八女やめ香春かわら線が通る。

小石原村
こいしはらむら

[現在地名]板倉町小石原

せき川が渋江しぶえ川を合せる辺り、関川右岸に位置し、東は中島なかじま村に接する。正保国絵図に村名がみえ、延宝七年(一六七九)の越州四郡高帳に高一八八石九斗余とある。天和三年(一六八三)検地帳(竹内文書)によれば高一五五石余、田一〇町二反余・畑四反余、家数二〇。寛保二年(一七四二)には家数三五・人数一九七、馬一六、年貢米北条きたじよう(現新井市)の郷蔵に収蔵し、田井たい村から川下げした(「村明細帳」同文書)

小石原村
こいしわらむら

[現在地名]豊前市小石原

六郎ろくろう村の東、佐井さい川左岸の段丘上に集落が形成されている。正和二年(一三一三)二月二〇日の鎮西下知状案(宮成家文書/鎌倉遺文三二)によると、「小石原」三段は黒土くろつち庄内にあった。宇佐宮弥勒寺仏聖灯油料として同寺供僧賢親が相伝していたが、当時「非器之仁」である山田宮内左衛門尉政盛が知行していた。そのため神領興行法により留守職禅達の挙状をもって訴えたところ、政盛の知行を止め、寺家に返付されている。江戸時代の領主変遷今市いまいち村に同じ。元和八年人畜改帳に村名がみえ給人分、家数四七・人数八八(うち百姓九・名子一一)、牛一一・馬五。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報