小日向村(読み)こびなたむら

日本歴史地名大系 「小日向村」の解説

小日向村
こびなたむら

[現在地名]文京区関口せきぐち一丁目・小日向二丁目など

小日向台の南半、江戸川(旧平川)神田上水の北岸一帯(一部南岸)に展開した村。天正一八年(一五九〇)徳川家康が江戸に入った頃、一帯は沼・池が多い低地だったという。また赤城あかぎ明神(現新宿区)辺りから関口せきぐち村目白不動堂辺りまではすべて田野で、人家もまれだったが、承応―万治年中(一六五二―六一)浅草川から江戸城牛込門まで仙台藩伊達家の手伝普請で新堀(神田堀)が開削されると、この時の揚げ土、また築土御殿つくどごてん(現新宿区)うし天神の山を崩した土をもって当村や小石川村の低地が埋立てられた。

小日向村
おびなたむら

[現在地名]松井田町小日向

国衙こくが村の東、増田ますだ川と九十九つくも川が合流し、さらに後閑ごかん川を合する辺りの後閑丘陵南側を占める。九十九川の氾濫原に水田をつくり、丘陵縁辺部に集落を形成している。碓氷郡に属し、「寛文朱印留」に村名がみえ、安中藩領。寛文郷帳では田方四一八石余・畑方二二二石余。この高のほかに元禄郷帳には曹洞宗長龍ちようりゆう寺領三〇石、真言宗豊山派成就じようじゆ院領三一石余が載る。江戸後期の御改革組合村高帳では家数一五八、安中藩領。中山道松井田宿・坂本さかもと宿の助郷村で、人足役家数四五・馬数二八と定められていた(寛文五年「助馬村々書上」坪井文書)。明治一〇年(一八七七)頃の家数一三六(うち社三・寺二)・人数五五〇、牡馬四二。

小日向村
おびなたむら

[現在地名]水上町小日向

川上かわかみ村の利根川対岸に位置し、東方高檜たかび(一三一五・一メートル)がそびえる。南方高日向たかひなた村から当村を経て鹿野沢かのさわ村へ至る道は、その先で清水しみず峠越往還と合流。寛文郷帳では田方七石余・畑方五四石余、沼田藩領。寛文三年(一六六三)真田領村高書上控では高二〇三石余。宝永元年(一七〇四)沼田領村々石高書上では高三五石余、反別は田方一町六反余・畑方一一町四反余。江戸後期の御改革組合村高帳では家数三四、幕府領。当地は鉱山に恵まれ、砥石山・鉛山がある。鉛山は長く休山となっていたが、天明八年(一七八八)鉛山試掘につき議定証文(鈴木文書)が出され、江戸の名古屋玄二が開坑している。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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