小屋敷村(読み)おやしきむら

日本歴史地名大系 「小屋敷村」の解説

小屋敷村
おやしきむら

[現在地名]塩山市小屋敷

三日市場みつかいちば村の北にあり、西は南流する笛吹川を隔てて万力まんりき筋のはやぶさ(現牧丘町)。地名は武田兵庫の居跡があることに由来して御屋敷といったという(甲斐国志)。慶長古高帳では於屋敷おやしき村と書き、高五六四石余、幕府領。ほかに恵林えりん寺領二三石余・大明神(現松尾神社)領一三石余と藤木ふじき村の放光ほうこう寺領一七石余があった。寛永一〇年(一六三三)徳美藩領、元禄一一年(一六九八)幕府領、宝永二年(一七〇五)甲府藩領。享保九年(一七二四)以降の支配は上井尻かみいじり村と同じ。宝永八年の検地により高六九六石余、反別は田二二町余・畑二八町六反余(うち屋敷五町一反余)となる(「検地帳」県立図書館蔵)。享保九年の村明細帳(小倉正恒家文書)によると家数一一二(本百姓九五・水呑一七)・人数四一四、馬一〇。

小屋敷村
こやしきむら

[現在地名]紫波町小屋敷

東根あずまね山から東方へ広がる山間地と平地を占める。東は下松本しもまつもと村、西は山を挟み岩手郡安庭あにわ(現雫石町)、南は上松本村吉水よしみず村、北は南伝法寺みなみでんぽうじ村。正保国絵図に村名がみえ、高二〇四石余。天和二年(一六八二)の惣御代官所中高村付では蔵入高七五八石余、七ヵ年平均の免四ツ七分五厘三毛。元禄十郡郷帳には小屋舗村とみえ、〆高は田方七一〇石余・畑方四六石余。

小屋敷村
こやしきむら

[現在地名]焼津市小屋敷・西焼津にしやいづ

小土こひじ村の南、堀之内ほりのうち村の西に位置し、村の中央部を小石こいし川が東流する。慶長九年(一六〇四)八月の志太郡小役村御縄打帳(萩原家文書)では高三一一石余、大部分が田方で入作が多い。寛永一九年(一六四二)の田中領郷村高帳に小屋敷村とみえ、高三〇九石余、田中藩領。以後同藩領のまま幕末に至る。同郷村高帳では益津ましづ郡に所属とあるが、寛文四年(一六六四)の西尾忠成領知目録(寛文朱印留)では志太しだ郡に属し、以後同郡に所属。元禄郷帳では高二九五石余。旧高旧領取調帳では高二九七石余、うち牛頭天王(現八坂神社)除地五斗・曹洞宗一照いつしよう寺除地一石。享保一七年(一七三二)の村明細帳(萩原家文書)では田方二五町三反余(うち両毛作三町ほど)・畑方二反余・屋敷一反余。

小屋敷村
こやしきむら

[現在地名]鰺ヶ沢町小屋敷町

東は立石たていし村、北は北浮田きたうきた村、南は岩木山麓、鳴沢なるさわ川の対岸は湯船ゆふね村。

もとは湯船村と同一村で「当村小屋敷の儀は昔ヒルカヘカ館之内に居住仕其砌は金甫村と唱来候」とあり、その後農耕の便のため鳴沢川を越え越屋敷となり、小屋敷となったといわれる(西津軽郡史)。貞享元年(一六八四)の郷村帳に寛文四年(一六六四)以降の新田として高三八・四石と記される。元禄三年(一六九〇)には高杉組に属し、村位は中とある。享保一二年(一七二七)藤代組に編入され(平山日記)、宝暦四年(一七五四)赤石組に属したという(西津軽郡史)

小屋敷村
こやしきむら

[現在地名]黒石市小屋敷

黒石城下北方の平野部にあり、南は田中たなか村、北は飛内とびない村に接する。明暦二年(一六五六)以来黒石津軽家領となり、元禄二年(一六八九)から同一一年の間は天領であった。村高は明暦二年の御知行割印形之控(「黒石領御日記」市立弘前図書館蔵)では三六〇・三四九六石、貞享元年(一六八四)の郷村帳では二一四石、元禄一四年の陸奥国津軽郡郷帳(同館蔵)では五一四石、正徳二年(一七一二)の公義江被差出候郷村之写(同館蔵)では三五六・三四九石、文化四年(一八〇七)の黒石高辻郷村帳(同館蔵)、明治二年(一八六九)の黒石領高辻帳(同館蔵)では四一四・三石とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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