小塙村(読み)こばなわむら

日本歴史地名大系 「小塙村」の解説

小塙村
こばなわむら

[現在地名]岩瀬町西小塙にしこばなわ

岩瀬盆地の中央にあり、東は加茂部かもべ村。村中央を東西結城街道が通る。当村と加茂部村の宿を併せて羽黒はぐろ宿といい、当村の宿は羽黒下はぐろした町と称された。宿の長さは四町二間(「里数改帳」茨城県歴史館蔵)

江戸時代は笠間藩領で、「寛文朱印留」に村名が載る。「郡官日省録」(武藤家文書)によると慶安三年(一六五〇)検地で村高七二七・九〇四石となり、万治三年(一六六〇)と延宝五年(一六七七)の新開検地で合せて一〇石余を打出す。

小塙村
こばなむら

[現在地名]那須町小塙・森田もりた

大きく蛇行するあら川左岸の台地上に位置し、北・西・南を同川に画される。対岸西方は深作ふかさく村、北・西・南は森田町。慶長七年(一六〇二)大田原晴清が加増された所領のうちに当地など四所で八〇〇石があり(「大田原藩領知覚書」伊藤安雄文書)、以後大田原藩領で幕末に至る。慶安郷帳では「小嶋村」とみえ、田高六六石余・畑高三七石余。

小塙村
こばなむら

[現在地名]下館市小塙

大谷おおや右岸に位置し、南はそうじま村。文明一〇年(一四七八)水谷氏が下館に築城後、同氏の支配地となる。江戸初期に下館藩領となり、元和九年(一六二三)の水野谷様御代下館領村々石高并名主名前控(中村家文書)に村高四四二・二七八石とある。元禄一五年(一七〇二)に藩主増山氏移封後は旗本領となり、天保八年(一八三七)の常陸御国絵図御改之記(同文書)には鎮守稲荷明神、家数二一、馬九、南条勘兵衛知行所とある。

嘉永六年―安政四年(一八五三―五七)の渡世向要用留(塚田家文書)に安政三年一〇月一六日のこととして「小塙丈右衛門殿子不思儀市内殿より申入御座候ハ、小塙村代吉と申人、新規ニ賃晒屋相始候ニ付、下地差出し呉候様両度申参、其上当月証文持参ニて、当人見舞ニ被参候、外ニ進物両様預り置候事」とあり、また安政四年正月の木綿晒屋議定書(同文書)に当村の富沢丈右衛門・平出代助の名があり、幕末には木綿晒業が成立していたことがわかる。

小塙村
こばなむら

[現在地名]八郷町小塙

恋瀬こいせ川左岸の台地上にあり、東は瓦谷かわらや村。中世は小塙氏が当地を支配したといわれ(新編常陸国誌)、戦国末期に佐竹氏の支配下に入り、文禄五年(一五九六)の御蔵江納帳(秋田県立図書館蔵)に「高弐百六十四石四斗八升 此内七十五石 荒 小塙」とある。江戸時代は旗本領で、元禄郷帳の村高は三五一石余、幕末は旗本春日氏領一六七石余、山中氏領一八三石余(各村旧高簿)

小塙村
こばなわむら

[現在地名]小川町小塙

鎌田かまた川の右岸に位置し、西は馬場ばば村。寛永二一年(一六四四)の御知行割郷帳に「小塙村」とみえる。「常陸紅葉郡鑑」(楯石氏蔵)によると嘉永三年(一八五〇)の石高は四〇三石余。「水府志料」による戸数はおよそ二九であったが、「常陸紅葉郡鑑」は延享四年(一七四七)人口一八〇・戸数三八、馬一六、嘉永三年人口一二六・戸数二六、馬一三とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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