小和田村(読み)こわだむら

日本歴史地名大系 「小和田村」の解説

小和田村
こわだむら

[現在地名]茅ヶ崎市小和田一―三丁目・松林しようりん一―三丁目・菱沼ひしぬま一―三丁目・小桜こざくら町・代官だいかん町・本宿ほんじゆく町・赤松あかまつ町・浜竹はまたけ一―四丁目・出口でぐち町・ひばりがおか旭が丘あさひがおか美住みすみ町・松浪まつなみ一―二丁目・常盤ときわ町・富士見ふじみ町・平和へいわ町・松が丘まつがおか二丁目・菱沼海岸ひしぬまかいがん白浜しらはま町・浜須賀はますか緑が浜みどりがはま汐見台しおみだい

南は相模湾に面し、西は茅ヶ崎村に接し、北の菱沼村と村域が錯綜する。北境を大山道、村内を東海道が東西に通る。「快元僧都記」の天文四年(一五三五)一〇月六日条に「去月下旬、中郡大礒・平塚・一宮、其外小和田・賀崎・鵠沼、皆為敵被焼畢」とみえ、扇谷上杉氏の来襲を伝える。「風土記稿」は正保年間(一六四四―四八)菱沼村を併入していたという。

近世は幕府直轄領から元和六年(一六二〇)頃菱沼村とともに一部が旗本杉浦正友領、寛永二年(一六二五)旗本杉浦親勝領の二給となり、宝暦一二年(一七六二)幕府直轄領。

小和田村
こわだむら

[現在地名]青垣町沢野さわの

村中を遠阪とおざか川が流れ、東は奥塩久おくしおく村。小和田・矢の内やのうち寺内じない・沢野よりなる。慶長三年(一五九八)織田信包(柏原藩)領となる。正保郷帳に村名がみえ田高一千九八石余・畠高一〇一石余。林少し、日損所有り。柏原藩領。慶安三年(一六五〇)以降の領主の変遷は田井縄たいなわ村に同じ。「丹波志」は小和田・奥塩久・寺内の三ヵ村を小和田村とする。元禄年間(一六八八―一七〇四)以前に奥塩久村が分村、元禄郷帳では高九四〇石余。

小和田村
こわたむら

[現在地名]諏訪市小和田・小和田みなみ城南じようなん上川かみがわ

高島たかしま城の東にあり、北と東は高島城下上諏訪かみのすわ宿に接する。もとは高島村とよばれ、諏訪湖東岸の島崎しまざきの地にあった。天正一八年(一五九〇)この地に高島城築城が企画されたため、東方の現在地に移った。

島崎にあった当時から有力な漁村で、文禄四年(一五九五)の「あきうみのおさめ覚」(花岡文書)に「拾五石九斗 高嶋村」とあり、諏訪湖周辺で最高の入漁の貢租を負担していた。また氏神の八剣やつるぎ社の造営には、諏訪湖の漁船から船別銭をとって費用に充てていたことが、既に中世の記録にみえている。

「諏訪郡諸村旧蹟年代記」に、「小和田村は古は高嶋村と云元禄三年より小和田村え被仰付候(中略)小名小和田小路田宿小路新小路北小路と云」とある。

小和田村
こわだむら

[現在地名]あきる野市小和田

あき川右岸に立地し、北は秋川を境として五日市村。地内に古刹広徳こうとく寺がある。天文二〇年(一五五一)九月六日の広徳寺領書立(広徳寺文書)に「小和田」とみえ、大石道俊が広徳寺領として安堵している。寛永一八年(一六四一)の年貢永一〇貫五六八文のうち漆永六貫八六〇文(小桶四九盃)であった(天野家文書)。田園簿に村名がみえ、田三石余・畑四六石余で幕府領、ほかに広徳寺領四〇石。

小和田村
こわだむら

[現在地名]関川村小和田

おんな川左岸にあり、西は新保しんぼ村・若山わかやま村に接する。女川流域の村で最上流に位置し、古くは川沿いに東のわらび峠を越えて出羽国へ抜ける道が通っていた。天文四年(一五三五)四月四日の本庄房長書状(色部文書)に「こわた」がみえ、本庄氏の下を離れた平ひやうゑ・いわさハが当村に集まり須貝党に交わったらしいとある。

小和田村
こわだむら

[現在地名]奈良市大和田おおわだ

富雄川西方にある。慶長郷帳の村高九八二・四一石、うち九七二・三一石は幕府領(代官角南主馬)。一〇・一石は中井大和(正清)領。元和元年(一六一五)幕府領は郡山藩(水野勝成)領となる。その後、中井大和領も郡山藩に編入され、寛永一六年(一六三九)にはすべて郡山藩(本多政勝)領となる。寛文一三年(一六七三)頃分村して高を分け、小和田村二六八・八五四石、大向おむかい村二八七・二二九石、木嶋このしま村二一二・三七九石、石堂いしどう村二一三・九四九石となる(「寛文十三年高分ケ之帳」富雄町史)。その後二割半無地高増政策により村高は三三二・六一二石となる。

享保九年(一七二四)の小和田村検地帳(富雄町史)によれば、家数二九、うち本百姓二三、水呑二、追分茶屋二、道場二で、追分おいわけ村は「小和田村之枝村」とある。

小和田村
こわだむら

[現在地名]筑波町小和田

三村みむら山西麓に所在。北方の山口やまぐち村より山根やまね(坂東街道)が通じ、村域には土師器・須恵器の出土をみる小和田古墳群がある。文禄三年(一五九四)の常陸国筑波郡真壁内小和田村御縄打帳(青森県立図書館野村文書)、慶長七年(一六〇二)の常陸国筑波郡小和田村御検地帳(同文書)によれば真壁氏領から天領となり、慶安二年(一六四九)土浦藩領となり廃藩置県に至る。享保期(一七一六―三六)の土浦藩西郷組大全帳によれば村高は一七二・五〇五石と新開田畑分一七・四九七石。

小和田村
こわだむら

[現在地名]高浜町小和田

高野たかの村の東南、青葉あおば山麓に南面して立地。村の南端を関屋せきや川が東流する。「若狭郡県志」は「小和田村属青郷、去小浜六里半許也」と記す。文永二年(一二六五)の若狭国惣田数帳写に「春宮御厨」と肩書して記す「青保五十九町三百廿歩」の「除廿九町廿歩」のうちに、「金劔宮二反」があり、当地字みや伊弉諾いざなぎ神社に比定される。「親元日記別録」政所賦銘引付文明一五年(一四八三)八月二日条には「大草三郎左衛門尉公友借銭証文案備右、事、以質券地若州青郷内保小和田并難波江村両所已下代官職契約之間、申出公物借遣之処、寄事於左右、無沙汰云々」とあり、大草公友が当村の代官職を有していたことが知られる。

小和田村
こわだむら

[現在地名]大宇陀町大字小和田

上品かみしな村の東南方、丘陵地帯に位置する。内閣文庫所蔵元禄郷帳には「和田村」、「大和志料」所収の元禄郷帳には「コワダ村」と訓注する。慶長郷帳にみる村高二四六・〇五八石。慶長六年(一六〇一)松山藩(福島高晴)領。元禄八年(一六九五)幕府領となる。元禄八年の「覚」によると、家数一九(高持一四、無高五)、人数一一一(男五五、女五六)長福ちようふく寺、牛六疋、馬一疋からなっている(宇陀郡史料)

小和田村
こわだむら

[現在地名]鮭川村中渡なかわたり

中渡村の西、南東流するまがり川の右岸に位置する。新田本村鑑によると山形牢人野尻七左衛門の開発によるが、のち村方が困窮し、中渡村の枝郷となったという。同書によれば正保三年(一六四六)には新田として高一〇六石余。明和三年(一七六六)には高一〇〇石余、うち田方八六石余、反別九町八反余、うち田方七町七反余(吉村本村鑑)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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