寺田村(読み)てらだむら

日本歴史地名大系 「寺田村」の解説

寺田村
てらだむら

[現在地名]城陽市大字寺田

現城陽市の中央北部に位置する。北は久世くせ村、南は富野との村・枇杷庄びわのしよう村、綴喜郡水主みずし村に接する。久世郡に属する。

伝説によれば、正面しようめん寺という寺があったが、治承四年(一一八〇)の平重衡の南都攻めに際して焼亡。その焼跡に周辺から移住して村落が形成されたと伝え、村の中央部に正面寺・東大門・西大門の地名が残っていたという。「京都府地誌」は「正面寺跡、巨刹ナリ、永久中兵火ニ亡ブ、後世土民其遺跡ニ観音堂ヲ造ル、夜叉観音即是ナリ、今又廃ス」と記すが、その跡地は字東口ひがしのくち中大小ちゆうだいしようのほぼ全域であったという。

村域の北東、山際の地には正道しようどう遺跡とよばれる古墳時代の住居跡群と、奈良時代の建物群による複合遺跡があり、奈良期の遺構から久世郡の郡衙があった地と推定されている。近くには七世紀から九世紀にかけての寺院と思われる正道廃寺跡や、平川ひらかわ廃寺跡もあり、早くから開かれた所である。

寺田村
てらだむら

[現在地名]西根町寺田

北の七時雨ななしぐれ山に発するりよう(染田川または寺田川)が村域中央を南流する。南は帷子かたびら村、東は黒内くろない(現岩手町)。万延元年(一八六〇)頃成立の白坂略縁起(盛岡市中央公民館蔵)染田そめた郷とみえ、もと染田村であったが、白坂しらさか観音堂の仏供田があったところから村名となったと考えられる。天正年間(一五七三―九二)末に寺田城に拠った北愛一の所領で、高四五〇石余であった(参考諸家系図)正保国絵図に村名があり、高二〇三石余。延宝三年(一六七五)桜庭兵助から当村内の新田を盛岡藩蔵入地に繰入れたいとの願いが出された(雑書)

寺田村
てらだむら

[現在地名]上野市寺田

服部はつとり川筋に面し、南は荒木あらき村。南宮なんぐう山西・南麓には後期古墳が群集する。西南より服部川を渡り、当村から一之宮いちのみや村へ向かう道が古東海道であろう。一部は条里の道といわれ、道の両側に条里遺構が顕著に残る。また尾根伝いにおか山越で山田やまだ郡に通ずる道もあった。服部川に沿うなかの岩壁の道は明治一一年(一八七八)に開かれたが、岩壁には中ノ瀬石仏がある。半肉浮彫の上品下生の阿弥陀如来は八尺の立像で左右の脇侍は線彫の観音・勢至の立像、ほかに八尺の線彫の不動明王像がある。鎌倉中期の作で、川向うの伊賀街道より拝観したものである。この磨崖仏は子売こうり地蔵とよばれ、嬰児をいったん地蔵の前に捨て、後に拾って帰ると丈夫に育つという。

寺田村
てらだむら

[現在地名]五日市町寺田・八幡ヶ丘やわたがおか・八幡ヶ丘二―三丁目

極楽寺ごくらくじ山東麓にあり、河内こうち川を隔てて利松としまつ村と相対する。西方は低い山地で、三方に開けた平地に集落が展開。村名について「芸藩通志」は廃山入寺の項で「古は大寺にて、此村を領せし故、寺田といへるにや」と記す。中世の山陽道は、沼田ぬまたとも(現広島市安佐南区)から石内いしうちを経て当地を通過していたと考えられ、当地には塚松があったという(石内村の「国郡志下調書出帳」)

嘉禎四年(一二三八)四月一七日付の伊都岐島社廻廊員数注進状案(新出厳島文書)に「保井田 川内 寺田一間」とみえる。

寺田村
てらだむら

[現在地名]掛川市寺島てらしま

原野谷はらのや川の右岸にあり、南は幡鎌はたかま村。旧名を原田はらだと称したといわれ(遠江国風土記伝)、一説に円通えんつう(現廃寺)があったので寺田と名付けたという(掛川誌稿)。中世は原田庄のうちで寺田郷と称され、原氏一族寺田氏の名字の地とされる。「円通松堂禅師語録」などによると、永享九年(一四三七)七月に「大通寺」(現森町の大洞院であろう)の大輝霊曜は「原田荘寺田郷」に曹洞宗円通院を開き、師の大洞だいとう院二世如仲天勧請開山とした。

寺田村
てらだむら

[現在地名]畑野町寺田

東は畑本郷はたほんごう村・畑方はたがた村、北は目黒町めぐろまち村。栗野江くりのえ村に近い所に字杉崎すぎさきとよぶ飛地的な小集落がある。杉崎は行政上独立村となった記録はないが、名主を置き明治四〇年(一九〇七)までは当村とは別に白山神社を産土神として別村の状態にあった。康暦二年(一三八〇)六月二日の室町将軍家(足利義満)下文写(椎泊本間文書)に「宮浦保寺田半分」とみえ、本間有泰から子の直泰に譲られた地頭職が幕府により安堵されている。天正一七年(一五八九)八月二九日の米山寺良雅寺領代官書出(国分寺蔵)に「寺田分代官鳥羽十左衛門」とある。寺社領別当の米山べいさん(現中頸城郡柿崎町)良雅のもとで、国分こくぶん(現真野町)領の代官をしていた鳥羽備前守が、当村西端に館を置いていた。

寺田村
てらだむら

[現在地名]長浜市寺田町

下坂中しもさかなか村の南、高橋たかはし村の東、田村たむら山の北にある。「木間攫」は加田かだ村より分れたとする。応永二二年(一四一五)一一月一六日「下坂庄九条郷寺田保内六里」の田地一反が大原おおはら観音寺(現坂田郡山東町)に寄進されている(「祐尊他四名連署田地寄進状」大原観音寺文書)。「蔭涼軒日録」明応元年(一四九二)一二月二九日条に寺田庄がみえる。

寺田村
てらだむら

[現在地名]取手市寺田

いな村東北に所在。村域の東北部は水田、ほかは北相馬台地となっている。寺田旧記(取手市役所所蔵文書)に「寺田沼之儀、前年田畑無之只葭真生茂り水鳥之栖候処、慶長八年下妻の領主多賀谷大夫少輔、冨田平十郎殿御出、和田村之悪水落堀をほり開発致し、尚又下妻より百姓を連来候(中略)本郷は元原藪にて候処、昔牛久之城主、由良信濃守、結城晴友卿之運威に没落し、家来散々に成其内四人連立本郷ニ隠住」などとみえ、字本郷ほんごうは開発の事情が異なっている。

寺田村
てらだむら

[現在地名]相生市若狭野町寺田わかさのちようてらだ

八洞はつとう村の北、矢野やの川中流域左岸に位置する。正安元年(一二九九)一一月五日の矢野庄の例名実検取帳案(東寺百合文書)に寺田・寺田森西・寺田住内などの地名がみえる。「住」は垣内と同じく開発の拠点と考えられる。同年一二月一四日の例名東方地頭分下地中分分帳案(同文書)に寺田としてホキタ、エウ、ナラワラ、イツモチなどの地名がみえ、田七町五反余・畠三町二反余が書上げられ、地頭(海老名氏)方に属した。

寺田村
てらだむら

[現在地名]岐阜市寺田

河渡ごうど村の北に位置し、東境は長良川で、その堤に寄り添うように集落を形成。河渡輪中に含まれた。年月未詳二五日の土岐頼明書状(阿部敏雄氏所蔵文書)に「寺田村預所職」とみえ、大坊御坊が当地の預所職をもっていた。頼明は頼遠の子である(続群書類従本「土岐系図」)。「蔭涼軒日録」長禄三年(一四五九)九月二四日条に「寺田郷」とみえ、京都建仁けんにん禅居ぜんきよ庵領で、半済に関する訴えが幕府に出されている。

寺田村
てらだむら

[現在地名]和泉市寺田町・弥生やよい町二丁目

今福いまふく村の南、松尾まつお川右岸に位置する。慶長一〇年(一六〇五)の和泉国絵図に村名がみえ、高二四二石余。延宝七年(一六七九)の寺田村検地帳(和泉市役所蔵)によると、慶長一六年片桐且元による検地があったというが、詳細不明。同帳によれば古検高二六三石余(反別二〇町余)、延宝検地高二六一石余(反別一七町余)、ひばり山に村中共用の芝山があり、用水池に門池(一町六畝余)・金谷池(五畝余)がある。

寺田村
てらだむら

貞和三年(一三四七)八月二三日の梶井宮尊胤法親王令旨(大徳寺文書)に寺田村とみえ、尊胤から京都大徳寺塔頭徳禅とくぜん寺御影堂に寄進されている。文和二年(一三五三)五月八日の延暦寺座主尊胤法親王令旨(同文書)によれば、本来来迎らいこう(現京都市左京区)領であったらしい。南北朝期には当村でも半済が行われた(応安六年四月二七日「室町将軍家御教書」同文書)。応永三四年(一四二七)に諸公事・守護役が免除され守護使不入の地とされたが(同年三月二八日「足利義持御判御教書案」同文書)、応仁・文明の乱では兵粮料所として大塩右京進の知行するところとなり乱後も違乱が続いた(文明一一年閏九月八日「室町幕府奉行人連署奉書」・年未詳七月二五日「馬場則家書状案」同文書)

寺田村
てらだむら

[現在地名]玉名市寺田

北境を菊池川(高瀬川)が西へ流れ、川沿いを三池みいけ往還が通る。東は安楽寺あんらくじ村、西は向津留むこうづる村、南は立山たてやま村・田崎たさき村と接する。寛永一〇年(一六三三)人畜改帳に「伊倉之内」として村名がみえ、田畠高三九六石四斗余、居屋敷上畠一町一畝余、分米八石一斗余、大小御蔵ともの家数八五・人数一一〇、牛一八・馬五とある。小田手永に属した。元禄国絵図には「伊倉北方之内寺田村」とみえる。宝暦一三年(一七六三)の下ケ名寄帳では畝数三五町四反二畝余・その他六町四反一畝余、高四一七石九斗余。

寺田村
てらだむら

[現在地名]鶴岡市寺田・道田町みちだまち

小淀川こよどかわ村の南東にあり、温海あつみ街道がほぼ東西に通る。村名から南西にある井岡せいこう寺の寺田であったのではないかとする説もある。元和八年(一六二二)の酒井氏知行目録に村名がみえ高二五六石余、ほかに新田四石がある。寛永元年庄内高辻帳では高七五五石余。正保郷帳では田六七九石余・畑七四石余、新田がある。寛文七年(一六六七)の検地帳(大泉村史)では高七七二石余・反別五九町余。弍郡詳記では免五ツ四分二厘、家数三五。用水は青竜寺川支堰の寺田堰・くらわき堰を利用(享保一七年「熊出川用水組合高之覚」二口文書)

寺田村
てらだむら

[現在地名]河南町寺田

山城やましろ村の南にあり、うめ川が流れる。貞和五年(一三四九)八月日付の淡輪助重軍忠状(淡輪文書)に「今年三月十五日河内国寺田合戦」、延文五年(一三六〇)六月日の田代顕綱軍忠状(田代文書)に「去四月十日、寺田平石合戦」とみえ、南朝方の拠点に近い当地一帯は度々合戦場になっている。天正一二年(一五八四)一一月の河内国御給人御蔵入之内より出米目録(中之島図書館蔵)に四〇五石五斗四升「寺田村」とみえ、右のうちより二〇石二斗出米と注記される。正保郷帳の写とみられる河内国一国村高控帳では高四九九石余、幕府領、小物成として山年貢米五斗余。領主の変遷は東山ひがしやま村に同じ。

寺田村
てらだむら

[現在地名]豊能町寺田

丹波国桑田くわた郡に属し、まき村の東に位置する山村。村の中央部を寺田川が南流する。中世は別院べついん庄のうち(→牧村。慶長五年(一六〇〇)村の一部が亀山かめやま(現京都府亀岡市)城主前田玄以領から旗本平野長重領となるが、残余部分の領主については不明。寛文二年(一六六二)この部分は高槻藩領となり(天保八年「郡秘録」三嶋家文書)、このときより旗本平野氏・高槻藩の相給村となり、幕末に至った。村高は元禄一一年(一六九八)は一六〇石余(同年「村明細覚」高田家文書)

寺田村
てらだむら

[現在地名]八王子市寺田町

たて村の東にあり、北は下椚田しもくぬぎだ村。湯殿ゆどの川の支流寺田川が流れ、東西を丘陵で区切られた谷戸集落。田園簿に村名がみえ、田六五石余・畑四七石余で幕府領。元禄郷帳では高一五六石余。享保六年(一七二一)の山之根村高改帳では旗本竹田(武田)領一一〇石余・高家長沢領四六石余。以後、幕末に至るまで同二氏の相給であったとみられる。「風土記稿」では民家五六、小名は台屋だいや西在家にしざいけ金山かなやま内手うちて小金沢こがねさわで、高札場は金山・内手と村東の二ヵ所。

寺田村
てらだむら

[現在地名]村松町寺田

上野うえの村の東。はく山の麓から流れる五部一ごぶいち川が平野部へ出る谷口付近にある。南東は谷沿いに山谷やまや村、北は田中たなか村。正保国絵図に高二三〇石余、村松藩領。建武三年(一三三六)一二月三日の色部高長軍忠状案(色部氏文書)に「同八月廿六日、菅名庄佐々河山并青橋条・黒金津保、於所々合戦致軍忠畢」とある「佐々河」は、もとささ川と称していた五部一川をさし、当地付近で新田氏と加地氏(加治氏)との合戦があった。

寺田村
てらだむら

[現在地名]仁賀保町寺田

白雪しらゆき川中流域の低地にあり、北は三十野みその村・なか村、東ははた村、西は大竹おおたけ村(現金浦このうら町)に接する。

由利郡中慶長年中比見出検地帳(由利郡中世史考)に仁賀保郷の一村として村名がある。支配の変遷は慶長七年(一六〇二)最上氏領、元和八年(一六二二)本多正純領、翌九年仁賀保挙誠領、寛永元年(一六二四)仁賀保氏の分知に際し良俊(七千石家)領、同八年天領となり、庄内(現山形県)酒井氏預領となる。

寺田村
てらだむら

[現在地名]静岡市寺田・丸子まりこ二丁目

鎌田かまた村の西に位置し、村の中央を丸子川が流れる。慶長一四年(一六〇九)一二月の彦坂光正駿府浅間社領所付写(旧新宮神主文書)に村名がみえ、高六石余とある。寛永九年(一六三二)幕府領となり、国立史料館本元禄郷帳、享保一六年(一七三一)の駿府代官所村高帳でも幕府領。元禄郷帳では高二二四石余。旧高旧領取調帳では幕府領二二四石余、明光みようこう(現曹洞宗)除地四斗。

寺田村
てらだむら

[現在地名]舞鶴市字寺田

池内いけうち川上流の寺田川に注ぐ二つの源流の落合にあり、池内谷最奥の山村。菅坂すがさか峠を越えて丹波中上林なかかんばやし水梨みずなし(現綾部市)へ通じ、北方与保呂よほろ谷に至る道もある。

慶長検地郷村帳に高一七一石「寺田村」とみえ、土目録では一七一石余、内訳は田方一四〇石余、畑方三〇石余、運上のなかに奉書運上銀一七一匁一分・端折紙二三束が記される。

寺田村
てらだむら

[現在地名]津和野町寺田

後田うしろだ村の北、津和野川左岸に合流する岩瀬戸いわせど川下流右岸の狭小な盆地と谷間に立地。津和野城下から浜田への道が通り、城下近郊村として発展した。寛永一四年(一六三七)の検地帳(津和野町郷土館蔵)によれば田高一三二石余・一二町四反余、畑高七九石余・二六町六反余。名請人は二一一、うち屋敷登録人一六、小百姓および下人八一・町人七〇・職人一七・家中侍七・同下人一〇。

寺田村
てらだむら

[現在地名]野津町都原みやこばる 新生しんしよう

菅無田すがむた村の南東にあり、南東は桐木きりぎ村。慶長二年(一五九七)の野津院検地帳写(渡辺家文書)には寺田村と菅無田村など五ヵ村分が一括された一冊が含まれ、村位は下。同一一年の惣御高頭御帳に村名がみえ、高一三石。香野村組に属した。正保二年(一六四五)の稲葉能登守知行高付帳によれば田方四石余・畑方九石余。

寺田村
てらだむら

[現在地名]御所市大字西寺田にしてらだ

葛城川の西、高野こうや街道と水越みずこし街道の交差地に位置する。近世初期には備中国松山藩(元和元年以後近江国小室藩小堀政一)領、天明六年(一七八六)以降幕府領となり、明治維新に至る。葛上郡内にもう一つ寺田村(寛文四年―元禄の間に玉手村から分離独立)があるので、明治一〇年(一八七七)五月一〇日、東西に分け、当村は西寺田村と改称。

寺田村
てらだむら

[現在地名]橿原市寺田町

高取川と曾我川の間に立地。南は慈明寺じみようじ村。西大寺田園目録に「高市郡北郷西廿六条三里十九坪(中略)字慈明寺」とあるのは当村に該当。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報