寺檀制度(読み)じだんせいど

改訂新版 世界大百科事典 「寺檀制度」の意味・わかりやすい解説

寺檀制度 (じだんせいど)

家制度ともいう。永続的な葬祭の関係を結んだ檀那寺(手次寺)と檀家の結合をもとに,江戸幕府民衆統制,宗教統制に利用した戸籍制度。寺僧が,その檀家家族個々について,キリシタンや禁制宗派たる日蓮宗不受不施派などの信徒でないことを証明する寺請を行うことによって,身元身分を証明した(寺請制度)。このことを直接命じた法令はないが,1671年(寛文11)に従来行われていた宗門改めを,人別帳を利用して行うように指令したことにより,宗門人別改帳作成が制度化されて寺檀関係は制度として成立した。その前提には,近世初頭から広範に成立した民衆の家と,それらを檀家とする村々の寺との寺檀関係の展開があり,一方,キリシタン禁教政策を江戸幕府が明確にすると,幕府や諸藩は寺檀関係を利用して宗門改めを行ったことがあげられる。たとえば1635年(寛永12)に若狭小浜藩は,檀那寺から宗旨手形を徴している。宗門人別改帳制度が成立すると,これによって寺檀関係は固定化され,寺替えや宗旨替えは原則として認められなくなった。婚姻奉公などのため生家を離れる場合は,檀那寺の寺送状(宗旨手形)をうけねばならなくなり,しだいに戸籍制度としての性格を強めた。また,家族の内で別の檀那寺をもつような半檀家(半檀家制)などは,この制度に適合的でなかったから,藩によっては,近世中期から後期にかけて,一家一檀那寺の寺檀関係への改変を令しているところもある。寺院側にとって,寺檀関係の制度化は寺の経営の安定を生みだすものであったから,その維持・強化につとめている。家康に仮託されて1613年(慶長18)の年記を付された〈宗門檀那請合之掟〉は,全国各地の寺院に写しが残されている有名なものであるが,それには檀那役(布施や募財)に応じない者,先祖の年忌法事を勤めない者,寺参りをしない者などはキリシタンとみなすなどの文言がみられ,寺檀関係の実態をよく示している。江戸期を通じて機能を発揮していた寺檀制度は,1871年(明治4)に戸籍制度が発足しても,翌年のいわゆる壬申戸籍には檀那寺が記載されているようになお残存し,73年のキリシタン禁止高札の撤去によってようやく制度として廃止された。しかし,その基礎となった寺檀関係は,明治民法による家制度の採用とあいまって,仏教各宗教団の基礎構造をなし,戦後の家制度廃止後においても,別の意味で存続をつづけ,現代に及んでいる。
檀家
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「寺檀制度」の意味・わかりやすい解説

寺檀制度
じだんせいど

檀家(だんか)制度、寺請(てらうけ)制度ともいう。特定の寺院が特定の家(檀家)の葬祭を永続的に担当して布施(ふせ)を受ける寺檀関係を基礎とし、寺請や宗旨人別帳への記載によって、檀家の人々がキリシタンでないことを証明させる制度。江戸幕府の宗教統制として始まり、戸籍制度の性格をもっていた。

 特定の寺僧へ布施を行う檀那(だんな)・檀越(だんおつ)は、仏教の成立以来みられるものであるが、公家(くげ)や武家に始まった家と菩提寺(ぼだいじ)の関係が、近世初頭に民衆の家が広範に成立すると、これを檀家とすることによって、寺檀関係が一般的に形成された。一方、江戸幕府はキリシタン禁制策をとり、キリシタン改(あらため)を指令したので、諸藩はさまざまな方法でこれを実施したが、このうちには1635年(寛永12)に若狭(わかさ)(福井県)小浜(おばま)藩が、檀那寺の宗旨手形を徴収したように、寺檀関係をキリシタン改に利用するものもあった。このようにして寛永(かんえい)期(1624~44)には寺請制が始められたが、これとは別に作成されていた人別帳を利用した宗門改も行われ、1671年(寛文11)幕府がこれを制度化すると、宗旨人別帳による寺請の制度として確立した。

 これによって寺と檀家の関係は固定化され、寺替(てらがえ)・宗旨替は原則として認められなくなった。婚姻や年季奉公などで生家を離れるときには檀那寺の寺送状(宗旨手形)をもって身分を証明されねばならなくなり、しだいに戸籍制度としての性格をもつようになった。そのため、家族のうちで檀那寺を異にするような半檀家とよばれるものなどは、この制度にふさわしくなかったから、藩によっては近世中期に一家一寺の寺檀関係への改変を命じたところもある。

 また寺院にとっては、寺檀関係の制度化はその経営の安定を生み出すものであったから、その維持・強化に努めた。徳川家康に仮託して著された有名な「宗門檀那請合之掟(うけあいのおきて)」は、享保(きょうほう)期(1716~36)ごろの成立といわれるが、それには、檀那役(布施や募財)に応じない者や、先祖の年忌法事を勤めない者をキリシタンとみなすなどの文言があり、寺院と檀家の関係をよく示している。

 江戸幕府が崩壊しても、1871年(明治4)に戸籍制度が定められるまで宗旨人別帳の作成は続けられた。宗旨人別帳の廃止後においては、仏教各宗教団は寺檀関係を教団の基盤として維持し、また明治民法が家制度を法制化したことによって、寺檀関係は存続を続け、現代に及んでいる。

[大桑 斉]

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世界大百科事典(旧版)内の寺檀制度の言及

【寺院】より

…さらに幕府は全民衆に対して,それぞれ宗旨と檀那寺を定め,その檀那寺の僧侶が発行する檀家証明書(寺請証文)を宗門改め,出生,結婚,旅行,転住,奉公,死亡などのときに必要とする制度をつくって民衆を統制したので,近世の日本人はすべて仏教徒となり,先祖以来の固定した宗旨と檀那寺をもつこととなった。これを近世寺檀制度という。こうして近世の寺院は一方で幕府の民衆支配の末端機構の役割を果たしたが,他方で村や町の地域文化の中心となり,また民衆の葬礼や先祖の鎮魂,年中行事や生活倫理など,生活文化の形成に当たって大きな推進力となった。…

【仏教】より

…逆にいうと,幕府は本山住持の任命について,その事前承認権さえ留保しておけば,全国寺院を末端まで支配できることを意味した。二つには幕府が行った人別宗門改によって,近世寺檀制度が生まれたことである。幕府は毎年,キリシタン宗門改を人別に実施し,このとき各人から寺請(てらうけ)証文を提出させた。…

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