宗門改(読み)しゅうもんあらため

精選版 日本国語大辞典 「宗門改」の意味・読み・例文・類語

しゅうもん‐あらため【宗門改】

〘名〙
① 江戸時代、キリシタン信仰を禁止、根絶するために設けられた制度。キリシタンの信者であるかないかを識別するため、家ごとに、信仰する宗旨、宗派を取り調べ、かつ、檀那寺にその帰依者であることを証明させ、領主に報告させたもの。宗門改役をおき、寺請、宗門人別帳をつくり、毎年定期的に行なわれた。宗旨改宗旨人別改
※禁令考‐前集・第三・巻二七・寛文一〇年(1670)一〇月晦日「宗門改之儀に付御代官え達」
御触書寛保集成二一・寛永一九年(1642)五月「一、領分中きりしたん宗門改と号し、所所に番を付置」

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デジタル大辞泉 「宗門改」の意味・読み・例文・類語

しゅうもん‐あらため【宗門改】

江戸幕府キリシタン信仰を禁止するために設けた制度。家ごと、個人ごとに仏教信者であることを檀那寺に証明させたもの。寛永17年(1640)幕府直轄領に宗門改役置き宗門人別帳を作り、その後、諸藩にも実施させた。明治6年(1873)に廃止。宗旨人別改。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「宗門改」の意味・わかりやすい解説

宗門改
しゅうもんあらため

江戸幕府がキリシタンを禁圧することを標榜(ひょうぼう)して設けた制度。宗教統制、民衆統制戸籍制度としての意味をもっていた。

 1613年(慶長18)以来たびたび発布されたキリシタン禁令が宗門改の契機となったが、それらには宗門改の具体的な方法が示されていなかったので、幕府や諸藩はさまざまな方法でこれを実施した。その一つは、1629年(寛永6)ごろに長崎で始められた踏絵や、幕府法令にみえる訴人奨励などの、キリシタン摘発を目的とした宗門改であり、いま一つは、反対にキリシタンでないことを証明する宗門改で、寺檀(じだん)関係に基づき檀那寺(だんなでら)が行う寺請(てらうけ)や、人別帳・五人組を利用して村役人が行う俗請(ぞくうけ)などがある。島原・天草一揆(あまくさいっき)でキリシタンがほとんど根絶されると、かえって宗門改は強化され、1640年(寛永17)には幕府に宗門改役が置かれ、64年(寛文4)には諸藩に宗門奉行(ぶぎょう)の設置が命ぜられた。ついで71年には宗旨人別帳の作成による宗門改が制度化され、以来この方法で実施されることになった。このような宗門改の制度化は、キリシタンを摘発することよりも、それを口実とする民衆統制であり宗教統制であって、あわせて領民を把握し身分制を確立しようとする戸籍制度の成立を意味している。

 宗旨人別帳の様式は、基本的には、1戸単位に戸主および全家族、奉公人の名前・性別・年齢を記し、これに宗旨と檀那寺名を付したうえで、檀那寺と村役人が請印(うけいん)を加えるというものであるが、藩によって相違があり統一的なものではない。毎年3~6月に作成されることになっていたが、そのつど全住民を集めて実施する藩や、略式にして出生・死没・移動のみを書き上げる藩などさまざまであり、かならずしも全国的に毎年実施されたものではなかった。それには、各藩における内部事情や、かつてのキリシタン勢力の強弱、さらには檀那寺が他領や遠方にあったり、半檀家(家族内で檀那寺を異にする場合)が多かったりする寺檀関係のあり方の違いも影響している。

 宗門改を寺請で行うことについては、儒者からの無用論や神道関係を中心とする反発があり、岡山藩などは神道請を実施していたし、近世中期以降には神職を寺請から除外する動きも現れた。明治維新神仏分離においてこの方向は強化され、氏子(うじこ)調べが立案され実施されたが、全国的に普及するには至らなかった。1872年(明治5)の壬申(じんしん)戸籍には、宗旨人別帳と同様に檀那寺が付記されていたが、翌年のキリスト教禁止高札の撤廃とともに改められ、宗門改の制度は廃止された。

[大桑 斉]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「宗門改」の意味・わかりやすい解説

宗門改
しゅうもんあらため

江戸時代キリシタンを弾圧するため各人所属の宗教を検査した制度。江戸幕府は慶長17(1612)年キリスト教伝道を厳禁したが,寛永14(1637)年に起こった島原の乱以後は特にキリシタンを弾圧し,同 17年には宗門改役を置いて取り締まった。宗門改の手段としては宗門人別帳(→宗門改帳)の作成が知られるが,ほかに次のものがあった。(1) 寺請(てらうけ) 婚姻,奉公などの際に,檀那寺からその者が檀家であることを証明する宗旨手形を受けさせた。(2) 絵踏み イエス・キリストや聖母マリアの絵像(→イコン)を踏ませてキリシタンでないことを証明させた。初めキリスト教から転宗した者に行なわれ,のちに一般的にキリシタン摘発のため用いられた。(3) 訴人の奨励 キリシタンを訴え出た者に一定の賞金を与えた。この懸賞令を記した高札は「切支丹札」と呼ばれた。五人組も初めはキリシタンを摘発させるための制度であった。また,古くはキリシタン類族調と称し,キリシタンの一族まで監視に付する制度もあった。(→キリスト教禁制

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百科事典マイペディア 「宗門改」の意味・わかりやすい解説

宗門改【しゅうもんあらため】

宗門人別改とも。江戸時代,キリシタン禁制を徹底させるため,民衆の信仰する宗教を調査する制度。併せて民衆統制,戸籍制度の役も果した。幕府はキリスト教禁止以後1614年より行い,1640年に宗門改役を置き直轄領内をきびしく取り締まり,1664年以後は諸藩にも宗門改役人を置いて藩内をくまなく調査させた。また1660年以後には踏絵,寺請(てらうけ)なども行われ宗門人別改帳も整備された。なお寺請には神道側からの反発もあり,岡山藩では神道請が行われた。→寺請制度
→関連項目キリシタン禁制キリシタン屋敷葬式フェレイラ

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「宗門改」の解説

宗門改
しゅうもんあらため

江戸幕府がキリシタン禁制の徹底化を進めるため実施した民衆統制策。当初は転びキリシタンが転宗した証明として寺請が実施されたが,1637~38年(寛永14~15)には島原の乱が,17世紀中頃には肥前・豊後・美濃・尾張で潜伏キリシタンの露顕事件(崩れ)が発生したのを直接的な契機として,幕府の宗門改役の指導のもとで全人民を対象とする宗門改が制度化された。原則として毎年2月か3月に宗門人別改帳が作成され,特定の檀那寺所属を義務づけられた。明治維新後,1871年(明治4)寺請制にかわって神社による氏子調べに変更されたが成功せず,73年キリシタン禁制の高札撤廃で停止された。

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旺文社日本史事典 三訂版 「宗門改」の解説

宗門改
しゅうもんあらため

江戸時代,キリスト教禁圧のため設けられた制度
島原の乱(1637〜38)後,幕府はキリシタン禁圧を強化し,'40年直轄領に宗門改役を置き,寺請制度,宗門改帳(宗旨人別帳・宗門人別帳ともいう)の作成,絵踏などを実施して,個人ごとに所属宗旨を明確化した。'64年からは諸藩にも実施させた。毎年定期的に作成した宗門改帳は戸籍台帳の役割も果たした。1873年キリシタン禁制の高札撤去によるキリスト教黙認により廃止。

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