寺本村(読み)てらもとむら

日本歴史地名大系 「寺本村」の解説

寺本村
てらもとむら

[現在地名]知多市八幡やはた

砂堆地帯を南北に通ずる西浦にしうら街道に沿って発達。東南には丘陵地帯が連なり、北はやぶ村・横須賀よこすか(東海市)に接する。付近には律令時代の開拓を示す条里制遺構がある。地名は天智天皇の頃の開基と伝える薬王山法海ほうかい寺にちなむという。唐院一年中目録の嘉元三年(一三〇五)五月に、唐院領四ヵ荘の一つに寺本庄としてみえるのが初見。森鴎外の「阿部一族」にみえる熊本藩の殉死者一八人のうちの寺本八左衛門直次は、「寺本が先祖は尾張国寺本に住んでゐた寺本太郎と云ふものであった」とあり、当村の出身とされる。

織田信雄の支配下では寺本郷とみえ、飯田半兵衛の給知があった(織田信雄分限帳)。慶長一三年(一六〇八)の検地で五千四五〇石余にも達したので、形式的には平井ひらい中嶋なかじま堀之内ほりのうち廻間はざまの四村に分割されたが、共同体的な組合村として一致した行動をとっている。北西に中嶋村、南西に平井村、北東に堀之内村、南東に廻間村が位置する。堀之内村の名は古城に由来し、「先年花井播磨居城之由」(寛文覚書)や「東西五十間余、南北二十間」(雑志)とある。

「寛文覚書」によれば、平井村は概高一千四一六石余、田五四町八反余・畑二六町四反余、家数一六二、人数九三五、枝郷は杉山すぎやま浦端うらばた。中嶋村は概高一千三一五石余、田四八町一反五畝余・畑三〇町四反余、家数二〇六、人数一千四五、枝郷は中小根なかおね荒子あらこ

寺本村
てらもとむら

[現在地名]伊丹市寺本一―六丁目・寺本・まつおか一丁目・同四丁目・奥畑おくはた一―三丁目・同五丁目・昆陽こや八丁目・昆陽北こやきた一丁目・中野西なかのにし一丁目・池尻いけじり一―二丁目・野間北のまきた一丁目・山田やまだ一―二丁目・同五―六丁目

山陽道に面し、昆陽村の西に位置する。地名は昆陽こんよう寺が所在することによる。慶長国絵図は昆陽寺を行基堂とし村名も行基堂村だが、元和三年(一六一七)の摂津一国御改帳では寺本村とみえ、高四三八石余。

寺本村
てらもとむら

[現在地名]春日居町寺本

加茂かも村の南に位置する平地の村。法華寺塔の心礎が一基あり、村名の起源となったという(甲斐国志)。慶長六年(一六〇一)の寺本村検地帳(県立図書館蔵)によると、反別は麦田二町四反余・上田六反余・中田一町余・下田八反余・下々田一畝余、麻畑一反余・上畑一町余・中畑八反余・下畑二反余・下々畑一反余で、うち桑一一九抱、屋敷二千八四五坪(うち桑六抱)、ほかに天正一七―一八年(一五八九―九〇)五ヵ国総検地以来の荒田が約六反ほどあった。

寺本村
てらもとむら

[現在地名]春日村美束みつか 寺本

河合かわい村の北、かす川上流筋にあり、南に枝郷の白川しらかわがある。正保郷帳では田六八石余・畑四一石余・山年貢八石余・紙桑木高一石余のほか、小物成に綿六三六匁・ひそ木四二五本・入木七八六束があった。貞享二年(一六八五)の大垣領村々高帳には高二〇七石余とある。元禄一三年(一七〇〇)の西山村諸色差出帳(所文書)では家数九九・人数四三六。宝暦一〇年(一七六〇)の西山筋運上帳(同文書)には炭竈一口の運上金三分とある。明治五年(一八七二)村明細帳によれば田高一三八石余・畑高八一石余、反別田一〇町五反余・畑八町四反余、家数八二、男一八三・女一六一、牛三九。

寺本村
てらもとむら

[現在地名]八幡町相生あいおい

那比なび川左岸にあり、下流は福手ふくて村。正保郷帳に田方一〇石余・畑方五二石余とある。宝暦六年(一七五六)の郡上郡村高覚帳(鈴木文書)では、家数七、年貢定米一二石余、神社料二斗九升九合。明治五年(一八七二)の村明細帳によれば、高三九石余、反別田八反余・畑二町六反余、新田高一七石余・反別一町七反余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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