寺尾城跡(読み)てらおじようあと

日本歴史地名大系 「寺尾城跡」の解説

寺尾城跡
てらおじようあと

吾妻鏡」に新田義重館としてみえる寺尾城ないしは寺尾館は寺尾の地にあった可能性が高い。寺尾西南の観音山かんのんやま丘陵には、寺尾中てらおなか城や茶臼山ちやうすやま城が存在し、後者新田義重伝承地といわれるが、これらは戦国時代の連郭式の山城である。治承・寿永の内乱が起こると、平宗盛に仕えていた新田義重は反平氏勢力を討つと称して急ぎ帰国し、新田につた庄の領家である花山院家藤原忠雅に、石橋山合戦で源頼朝が敗走したことなどを報告している(「山槐記」治承四年九月七日条)

寺尾城跡
てらおじようあと

[現在地名]長野市松代町東寺尾

東寺尾村の北部標高一五〇メートルほどの山頂にある。この地の豪族寺尾氏の城で、「高白斎記」の天文一九年(一五五〇)九月九日には、この日武田晴信が砥石といし(現小県郡真田町)を攻め、村上氏の防戦で大敗したことが記され、続いて「十九日須田新左衛門誓句、廿三日清野方注進、高梨坂木(村上)和談於平途討向、寺尾城ヘ取カケラレルヽノ内、真田(幸隆)方ハ助トシテ被越候」とあり、武田方が真田氏をして寺尾城の寺尾氏へ働きかけ、武田方への同調を図ったものであろう。その後、天正年代(一五七三―九二)諏訪神社上社・下社の造営または御頭役を寺尾氏が務めている。更にその後、上杉景勝支配に入ると文禄三年(一五九四)定納員数目録(米沢図書館蔵)九月の条に、大滝甚兵衛の同心の中に「寺尾九助」の名がみえ、慶長三年(一五九八)正月には、上杉編年文書によれば、この時上杉景勝が会津移封について、その家中に一千六五〇石の大身の中に「寺尾源蔵」の名がみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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