鎌倉街道(読み)カマクラカイドウ

デジタル大辞泉 「鎌倉街道」の意味・読み・例文・類語

かまくら‐かいどう〔‐カイダウ〕【鎌倉街道/鎌倉海道】

鎌倉時代、鎌倉から諸国に通じていた主要道路。上の道(化粧けわい坂・瀬田・府中)、中の道(山内・大船・世田谷・府中)、下の道(大船・弘明寺・池上・芝・下総・上総)の三道を主とした。

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日本歴史地名大系 「鎌倉街道」の解説

鎌倉街道
かまくらかいどう

鎌倉幕府成立後、鎌倉と東国各地を結ぶ道として発達・整備された街道。幕府滅亡後も鎌倉府が置かれ関東の中心であった鎌倉と各地を結ぶ道として機能したが、小田原北条氏の進出後はその領国下で伝馬道として整備された。その役割も軍事や鎌倉大番役などのため鎌倉と御家人所領を結ぶ道から、商業・流通の発展に伴い多くの人や物資を運ぶ交通路へと拡大した。中世後期には市場之祭文写(武州文書)にみられるように、その沿道周辺に多くの市も発達している。しかしその後、近世の街道整備によりその古道化が進み、「風土記稿」では「鎌倉ノ古街道」「古ノ鎌倉街道ト云跡」などと記されるに至る。鎌倉街道という名称は近世以降に成立したものと考えられ、中世の史料にはみられず、かみつ(路)中道なかつみち下道しもつみち(カミノミチ・ナカノミチ・シモノミチともよむ)、あるいは奥大道おくのだいどうなどの呼称で現れる。現在では一般に東国中世の街道の総称として用いられることが多い。現埼玉県域にも多くの鎌倉街道伝承地があるが、主要なものは現在一般に上道・中道とよばれる幹線や羽根倉はねくら道・秩父道・慈光寺じこうじ道などとよばれる脇道である。

〔上道〕

上道は鎌倉から武蔵国府(現東京都府中市)を経由し、上野・信濃・越後方面に至る道で、「梅松論」では武蔵路ともよばれている。現埼玉県域へは東京都東村山ひがしむらやま市から所沢市域に入り、狭山市入間川いるまがわ―日高市大谷沢おやざわ―鶴ヶ島市町屋まちや―坂戸市森戸もりど毛呂山もろやま市場いちばを通り、鳩山はとやま町から笛吹ふえふき峠を越えて嵐山らんざん町―小川おがわ町―寄居よりい町に至る。寄居町赤浜あかはまで荒川を渡り、花園はなぞの小前田おまえだ―寄居町用土ようどから美里みさと町―児玉こだま町を経由、神川かみかわ肥土ひど付近で神流かんな川を渡河し群馬県藤岡市に至る。以上が上道本道と考えられている道筋であるが(「鎌倉街道上道」歴史の道調査報告書)、所沢市元町もとまちで分岐し狭山市堀兼ほりかね方面に向かう堀兼道、花園町の荒川渡河点で分れて深谷、岡部おかべ、本庄方面に向かう本庄道などの脇道が知られている。

上道の宿は鎌倉時代末期の成立とされる「宴曲抄」の善光寺修行に入間川(現狭山市)大蔵おおくら(現嵐山町)奈良梨ならなし(現小川町)・児玉(現児玉町)の各宿がみられる。入間川宿は上道が入間川を渡る重要な地として史料に多く現れる。鎌倉前期では「吾妻鏡」に鎌倉を逃れた源義高(義仲の嫡子)が頼朝の追手に討たれた地(治承四年九月七日条)として、また「信生法師日記(宇都宮朝業日記)にも元仁二年(一二二五)に朝業が鎌倉から信州善光寺に向かう途次に歌を詠んだ地としてその名がみられる。

鎌倉街道
かまくらかいどう

鎌倉幕府の創立に伴い、東国の政治中心地である鎌倉と各地を結ぶ道路が発達した。なかでも政治上・軍事上はもとより、一般に交通・物流の重要なルートとして中世を通じて栄えたのは、武蔵国を通過する上道かみのみち中道なかのみち下道しものみちの三つの幹線道路であった。ただし、これらの幹線道路を鎌倉街道というのは近世以降の称呼とみられる。

〔上道〕

鎌倉から武蔵府中を経て上野・下野方面へ向かう幹線道路で、「吾妻鏡」養和元年(一一八一)九月一六日条に「武蔵大路」とあり、「梅松論」に「武蔵路」とある。「吾妻鏡」文治五年(一一八九)七月一七日条ではこの道を「下道」とするが、「太平記」(巻一〇)に「上路」とするように、のちには上道が一般的な称呼となった。これは武蔵国の政治中心地である府中を経由して鎌倉と東山道・北陸道方面とを結ぶ重要な交通路であり、鎌倉街道のなかで最も多くの史料を残している。正安三年(一三〇一)に僧明空の撰した「宴曲抄」のなかの「善光寺修行」に、鎌倉から信濃の善光寺に参詣する道筋として、上道のおもな地名が詠込まれている。すなわち鎌倉を出て柄沢からさわ(現神奈川県藤沢市)飯田いいだ(現神奈川県横浜市戸塚区)を経て、井手いでの沢(現町田市本町田付近)小山田おやまだ(現同市)関戸せきど(現多摩市)恋ヶ窪こいがくぼ(現国分寺市)を通過し、久米川くめがわ(現東村山市)から入間いるま郡に入り、堀兼ほりかね(現埼玉県狭山市)に至り、入間川・つき川などを越えて上野国へ向かうのである。この上道は関戸と恋ヶ窪との間で武蔵府中のほぼ西辺を通り、府中中央部には支路を分出する。なお鎌倉と府中の間には二俣川ふたまたがわ(現横浜市旭区)を経るルートもあり、これは上道と中道を結ぶ道路とみられる。元暦元年(一一八四)木曾義仲の子志水義高が鎌倉を脱出して入間河原で誅殺されたとき、文治五年奥州征討の北陸道軍が上野を経て越後・出羽へと進んだとき、建久四年(一一九三)源頼朝が入間野と那須なす野で狩をしたとき、元久二年(一二〇五)畠山重忠が北条氏の謀略にかかり菅谷すがや(現埼玉県嵐山町)から鎌倉へ向かって二俣川で討死したとき(以上、「吾妻鏡」)などの経路は、いずれも上道と推定される。

上道には関戸に関所があり、小野路おのじ(現町田市)・関戸・久米川などに宿が設けられていた。関戸の関所の柵列跡と推定される柱穴群が旧鎌倉街道に面する熊野神社境内から検出されている。小野路宿は応永一〇年(一四〇三)の小野大明神の鐘銘(神奈川県逗子市海宝院所蔵)によって知られ、また関戸宿は南北朝期頃成立した「曾我物語」にみえている。

鎌倉街道
かまくらかいどう

鎌倉幕府の開設によって、大番役その他で諸国の武士たちが鎌倉を往復したが、各地から鎌倉への道を鎌倉街道という。鎌倉から上野国へ至る道は、化粧坂けわいざか(現鎌倉市)瀬谷せや(現横浜市)小野路おのじ(現東京都町田市)関戸せきど(現多摩市)分倍ぶばい府中ふちゆう(現府中市)堀兼ほりかね入間川いるまがわ(現埼玉県狭山市)菅谷すがや(現比企郡嵐山町)鉢形はちがた(現大里郡寄居町)雉岡きじがおか(現児玉郡児玉町)を経て上野国に至り、越後・信濃へも通じる。また鎌倉から弘明寺ぐみようじ(現横浜市)丸子まるこを通り、王子おうじ(現東京都)岩槻いわつき(現埼玉県岩槻市)高野たかの(現北葛飾郡杉戸町)で利根川を渡り古河こが(現茨城県古河市)を経て陸奥国へ至る道もあり、前者を上道かみのみち(武蔵道)、後者を下道しものみちとよぶ。

上野国へは上道が利用されたが、東上野より入る場合は下道も利用された。建久四年(一一九三)源頼朝は下野国那須なす野と信濃国三原みはら(現吾妻郡)で狩を催した。三月二一日に鎌倉を出発、入間川を経て那須に到着、四月二八日に新田義重の館に寄って鎌倉に帰っている(吾妻鏡)。妙本寺本「曾我物語」によると、三原の狩に向かう経路は山名やまな(現高崎市)板鼻いたはな(現安中市)松井田まついだ(現碓氷郡松井田町)を経て碓氷うすい越で信州に至り、帰路は大戸おおど(現吾妻郡吾妻町)三野倉さんのくら(現群馬郡倉淵村)室田むろだ(現同郡榛名町)から長野ながのを経て有馬ありま(現渋川市)に至り、大渡おおわたり(現前橋市)古利根川を渡って赤城山南麓を東へ進んでいる。

鎌倉街道
かまくらかいどう

甲府盆地と駿河方面とを結ぶ街道のうち、最も東寄りを走っている道で、石和いさわ宿からかね川沿いをさかのぼって御坂みさか峠を越え、河口かわぐち湖東岸を南進し、上吉田かみよしだ(現富士吉田市)から山中やまなか湖西岸を経て籠坂かごさか峠を越え、須走すばしり竹下たけのした(現静岡県小山町)に通じ、さらに相模小田原に至る。ほぼ現在の国道一三七号・一三八号である。鎌倉往還・駿州東往還などともよばれ、また道中最大の難所御坂峠を越えることから御坂路ともいい、甲斐国府へ通ずる官道であったため甲斐路などとよばれることもある。鎌倉街道の名は、甲斐が鎌倉時代に鎌倉と政治的・文化的に密接な交渉をもつようになり、また鎌倉から信濃・北陸道方面に至る通路としても要衝となったため、後世命名されたもので、甲斐だけでなく関東諸国や駿河・伊豆など、すべて鎌倉をめざす街道に広くこの名が残っている。

甲斐の鎌倉街道は時代によって道筋に多少の変遷はあったが、史料上確認できる甲斐国最古の官道(駅路)がこれに当たる。「延喜式」兵部省諸国駅伝馬条に「甲斐国駅馬。水市・河口・加吉各五疋」とあるのがそれで、起点の甲斐国府(現春日居町からのち現御坂町へ移る)側から記載されていると考えられる。水市みずいち駅の位置については、「甲斐国志」以来現一宮町市之蔵いちのくら説が有力であったが、最近では御坂峠の北麓現御坂町上黒駒かみくろこま説が支持されている。駅路がこの峠を越えたことは、「承徳本古謡集」に「甲斐人の嫁にはならじ事辛し甲斐の御坂を夜や越ゆらむ」とあることや、「能因法師集」に「みさかぢはこほりかじけるかひがねのささなかさらすてづくりのごと」などとみえることで疑問の余地はない。なお「御坂」の名の起りを日本武尊の通過した道であるためとするのはまったくの付会であるが、古道がこの峠を越えたという認識がこの伝説の基礎となっていることは認められよう。河口駅は御坂峠の南麓現河口湖かわぐちこ町河口、加吉駅は籠坂峠の北麓、現山中湖やまなかこ村山中付近に比定して大過ないであろう。ともに険しい峠の麓にあり、しかも水草の便のよい湖畔に位置するという、駅を置くには最適の条件を備えた場所である。

鎌倉街道
かまくらかいどう

鎌倉幕府が成立して鎌倉が東国の政治的中心となってから、各地と鎌倉とを結ぶ道路が発達した。「風土記稿」などではこれらの道は「古の鎌倉海道」「鎌倉古街道」などと称されている。おそらく江戸時代に入ってからの呼称かと思われるが、現在では鎌倉幕府成立以後、各地から鎌倉へと向かった中世古道の総称として用いることが普通である。

鎌倉街道の遺跡と称される所は、関東から中部地方にわたる各地に分布している。中世の東海道であった鎌倉―京都往還もまた鎌倉街道の一種ともいえようが、その最も主要なものは鎌倉と関東地方北部、あるいは東北部とを結ぶ、上道かみのみち中道なかのみち下道しものみちである。文献上では、元弘三年(一三三三)五月の新田義貞の鎌倉攻めの際、これを迎え撃つ幕府側の軍勢の派遣された道として現れる。「梅松論」に「かゝりしほどに三の道へ討手をぞ遣されける、下の道の大将は武蔵守貞将むかふ処に、下総国より千葉介貞胤、義貞に同心の儀有て責上る間、武蔵の鶴見の辺にをいて相戦けるが、是も打負て引退く、武蔵路は相模守守時、すさき千代塚にをいて合戦を致しけるが、是もうち負て一足も退ず自害す、(中略)陸奥守貞通は中の道の大将として葛原にをいて相戦」とみえ、「太平記」巻一〇にも「一方へは桜田治部大輔貞国を大将にして、長崎二郎高重、同孫四郎左衛門、加治二郎左衛門入道に、武蔵・上野両国の勢六万余騎を相副て、上路より入間河へ被向」、また「搦手の大将にて、下河辺へ被向たりし金沢武蔵守貞将は、小山判官・千葉介に打負て、下道より鎌倉へ引返し給ければ」とみえる。

鎌倉街道
かまくらかいどう

中世、鎌倉と結ばれた道。房総では鎌倉の外港六浦むつら(現横浜市金沢区)と結ぶ湊津への道が相当するが、この海路は多様であったと想定され、その浦に至る道も幾筋かあり、鎌倉道と称されたのであろう。下総国では現船橋市小室こむろ町と白井しろい町の境の神崎かんざき川に鎌倉橋が架かり注目されるが、地名鎌倉街道かまくらかいどうが多くみられたのは上総国で、その分布を含め経路の復原が試みられている。現木更津市中烏田なかからすだの道標に「北かまくら道」とあり、その北の同市貝淵かいふちに地名渡海面とがいめんが残ることから、内陸部または富津と結ぶ道があったことが知られるとともに、富津と別に対岸六浦に渡る木更津が定着した湊であったことがうかがえる。この木更津・富津に至る道筋は鎌倉道と称されたと考えられ、現木更津市の北東の現袖ケ浦市野田のだ川原井かわはらい蔵波くらなみに鎌倉街道・鎌倉通かまくらどおりの地名が残っていることが注目される。

さらに延長上の現市原市立野たてのにも同様の地名があるが、この北の今富いまどみ地区(江戸時代の人馬継立場)を過ぎれば中世に府中ふちゆうと称された能満のうまん(現市原市)に至り、周辺は古代に国府・国分尼寺やその関連施設などが置かれた上総国の中心であった。

鎌倉街道
かまくらかいどう

中世の京都と鎌倉を結ぶ主要な交通路は、京都から美濃までがほぼ古代の東山道、尾張以東は同じく東海道のルートであった。したがって美濃国内の主要な道は、東山道から尾張へ通じる道筋(いわゆる美濃路)をとり、野上のがみ(現不破郡関ヶ原町)垂井たるい(現同郡垂井町)青墓あおはか赤坂あかさか笠縫かさぬい(現大垣市)墨俣すのまた(現安八郡墨俣町)などの宿駅がおかれていた。これらの宿駅は時代により盛衰があった。建久元年(一一九〇)源頼朝の上洛の道筋は、尾張国の小熊おぐま宿(現羽島市)から墨俣・青墓を通るものであった(「吾妻鏡」同年一〇月二八日・同二九日条など)

鎌倉街道
かまくらかいどう

鎌倉時代の東国武士の所領と鎌倉を結ぶ連絡路をいい、上道かみのみち・中道・下道という三つの幹道があった。奥州から下野国を南北に縦走して武蔵国へ進み、鎌倉に至るのが鎌倉街道中道である。この道は、源頼朝が文治五年(一一八九)七月、奥州の藤原泰衡を討つべく大軍を差向けたときに整備されたと推定される。鎌倉勢は中道を通って下野に入り、同月二五日古多橋こたはし(現宇都宮市)に到着した。そして新渡戸しんわたど(現黒磯市杉渡土か)を経て、二九日に奥州白河関に至っている。建久四年(一一九三)四月源頼朝は那須野において盛大な狩を催した(以上「吾妻鏡」)

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改訂新版 世界大百科事典 「鎌倉街道」の意味・わかりやすい解説

鎌倉街道 (かまくらかいどう)

中世の古道。鎌倉往還とも呼ばれる。おもに尾張・美濃・飛驒・越中以東に分布するが,本来は〈鎌倉に通ずる道〉の意であるから,武蔵などには網の目状に存在している。主要幹線には,碓氷(うすい)峠より上野・武蔵国府を経由する信濃-上野道,東海道筋にあたる京鎌倉往還,甲斐国府より御坂峠・三国峠を越える甲斐道筋,さらに2本の奥州道(1本は白河関より下野国府を経由し,もう1本は勿来(なこそ)・大垬(おおぬかり)関から常陸国府を経由する)や,一部海路を経て安房国府および上総・下総国府を結ぶ道などがあった。このうち信濃道筋は善光寺から松本を経て,飛驒山脈の安房峠または中尾峠を越え,さらに唐尾峠を経て越中平野にまで続く。また甲斐道筋は,諏訪より金沢峠を経て高遠に出て,そこから伊那・天竜川沿いの道か分杭峠・北条坂を経て伊那谷から木曾山脈の網掛峠・神坂峠を越え,木曾谷に出ていた。また幹線以外に〈鎌倉ハヤ道〉と呼ばれる支線もあった。

 鎌倉街道は国府(府中)を多く通過し,守護所もこの街道沿いに設置されることが多かった。信濃では鎌倉街道は,守護北条氏(塩田氏)の館のあった塩田荘内を通過し,三河でも守護所矢作(やはぎ)宿を通過する。尾張でも,近世の美濃街道が京都への最短路を取るのに対し,中世鎌倉街道は室町期の守護所である下津(おりづ)宿を経由していた。

 現在でも鎌倉街道は道路として継承されていることが多いが,一部が山林の中に保存されている場合もある。それを観察すると一定の幅員(5~6m)を持った細長い窪地状になっているものが多く,そのため〈長堀通〉〈七里堀〉というような地名も残っている。また台地上では両側に土手が築かれているものもある。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「鎌倉街道」の意味・わかりやすい解説

鎌倉街道
かまくらかいどう

鎌倉へ通ずる古道(こどう)の総称で特定の路線ではない。いつごろからこの名称が始まったか明らかでないが、文献としては『新編武蔵風土記稿(むさしふどきこう)』『新編相模国(さがみのくに)風土記稿』などに、「鎌倉古街道」「鎌倉古海道」あるいは「古(いにしえ)の鎌倉街(海)道」などと記されている。鎌倉幕府開設以来、各地から鎌倉へ向かう中世古道をさしているといえよう。そのうち重要な路線として「京・鎌倉往還」がある。これは京都朝廷と鎌倉幕府の所在地を結ぶもので、ときにより多少の相違があるが東海道筋をとっていた。また、歴史上有名なものとして、1333年(元弘3・正慶2)新田義貞(にったよしさだ)の鎌倉攻めのときの進路が、『太平記(たいへいき)』や『梅松論(ばいしょうろん)』に「上ノ道(かみのみち)(武蔵路(むさしじ))」「中(なか)ノ道」「下(しも)ノ道」として記述されている。「上ノ道」は鎌倉の化粧(けわい)坂から藤沢の東の高谷(たかや)(村岡)を経て俣野(またの)に出(い)で、境川沿岸を北上し、小野路(おのじ)、関戸(せきど)にて多摩川を渡り、武蔵府中(ふちゅう)に至る。「中ノ道」は北鎌倉の山ノ内(やまのうち)から戸塚(とつか)付近を経て二俣川(ふたまたがわ)、鶴ヶ峯(つるがみね)、長津田(ながつだ)と北上し、本町田(ほんまちだ)付近で「上ノ道」と合したとみられ、「下ノ道」は山ノ内から弘明寺(ぐみょうじ)、保土ケ谷(ほどがや)を経て鶴見(つるみ)方面に至る道と推定され、それぞれ上野(こうずけ)、下野(しもつけ)、信濃(しなの)、あるいは下総(しもうさ)、上総(かずさ)などに通じていた。

[前田元重]

『阿部正道「鎌倉の古道」(『鎌倉国宝館論集』2所収・1958・鎌倉国宝館)』

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百科事典マイペディア 「鎌倉街道」の意味・わかりやすい解説

鎌倉街道【かまくらかいどう】

鎌倉幕府開設以来,各地から鎌倉に向かう中世の古道。鎌倉往還とも。鎌倉を中心として放射状に走り,どの道も地方へ向かう場合は行き先に応じ武蔵(むさし)路・信濃(しなの)街道・上州路,京都と結ぶ〈京鎌倉往還〉などと別称した。多くは国府(府中)を通り,街道沿いに守護所が設置された。現在道路として継承されているものもあるが,山中に残るものは5〜6mの幅で細長い窪地状になっているものが多く,〈長堀通(ながほりみち)〉〈七里堀(しちりぼり)〉の地名も残る。
→関連項目板鼻下津萱津黒駒関黒田宿壬生通り

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「鎌倉街道」の意味・わかりやすい解説

鎌倉街道
かまくらかいどう

鎌倉時代,鎌倉と各地を結ぶために開かれた道路の総称。そのうち特に上ノ道,中ノ道,下ノ道の3道が知られている。上ノ道は,化粧坂 (けわいざか) から柄沢,飯田,瀬谷,鶴間,木曾,小野路,関戸,分陪などを経て武蔵府中にいたり,ここからさらに上野,下野,信濃に通じた。元弘3 (1333) 年,上野に挙兵した新田義貞が鎌倉攻めの際に通ったのがこの道である。中ノ道は,山内から大船,永谷,名瀬,二俣川,白根,麻生,是政などを経て府中にいたり,上ノ道に合した。奥州征伐の際の源頼朝の進路といわれる。下ノ道は永谷で中ノ道から分れ,平間,池上,芝などを経て,房総,奥州方面に通じた。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「鎌倉街道」の解説

鎌倉街道
かまくらかいどう

鎌倉道・鎌倉往還とも。鎌倉へ通じる中世の古道の総称。鎌倉幕府成立により鎌倉が政治の中心地となり,各地から御家人が鎌倉へむかう道ができた。鎌倉街道の道名は各地にあるが,とくに関東北部にまで至る上道(かみのみち)・中道(なかのみち)・下道(しものみち)が主要。上道は別称武蔵道,3道のうち最も西に位置し信濃国へ通じる。源頼朝が下野国に狩猟におもむくときに利用したといわれ,その後新田義貞が南下の際通行,分倍河原(ぶばいがわら)の戦がおきた。下道は最も東を通り下総国へむかう。中道は上道・下道の間に位置し,頼朝が奥州平泉攻めのときに通行したという。江戸時代も鎌倉へ通じる道の総称としてよばれ現在に至る。

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事典 日本の地域遺産 「鎌倉街道」の解説

鎌倉街道

(埼玉県所沢市市内)
とことこ景観資源」指定の地域遺産。

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世界大百科事典(旧版)内の鎌倉街道の言及

【尾張国】より

…斯波氏は国衙機構を掌握,応仁の乱前後には,荘公を問わず国内全域の公田を対象とする守護独自の段銭を賦課していた。この時期,守護所は鎌倉街道沿いの下津(おりづ)におかれていた。下津城址と推定される地域から,近年多くの中世陶磁,漆製品,木簡などが発掘されている。…

【中部地方】より

…8世紀後半から成立し増加していった荘園もその多くは畿内の貴族,寺社の占有するところであった。古くから東海道,東山道,甲州道中が通じ,京畿内との交流が盛んであったが,鎌倉時代には東山道の美濃から東海道へと通じる街道,あるいは甲斐を経て信濃や北陸地方を鎌倉につなぐ街道など,いわゆる鎌倉街道が設けられ,東国との交流も活発となった。戦国時代には甲斐の武田信玄,越後の上杉謙信,駿河の今川義元らの群雄が割拠するなか,全国統一の先鞭をつけた織田信長,それにつづく豊臣秀吉,徳川家康は尾張,三河を根拠地として活躍した。…

※「鎌倉街道」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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