富沢村(読み)とみざわむら

日本歴史地名大系 「富沢村」の解説

富沢村
とみざわむら

[現在地名]一関市弥栄やさかえ

楊生よう村の南、磐井いわい丘陵東端にある。東を北上川が南流し、対岸は薄衣うすぎぬ(現東磐井郡川崎村)。天正一六年(一五八八)五月二〇日の葛西晴信知行宛行状(日形小野寺文書)に「流之内富沢村」とみえ、五千刈が浜田安房守の乱での戦功の賞により小野寺肥後に与えられている。慶長五年(一六〇〇)の葛西大崎船止日記(伊達家文書)に「とミさハ」とみえる。翌六年には当村八〇貫五六七文が留守政景知行となった(「留守政景知行目録写」留守文書)正保郷帳では田五五貫五〇六文・畑二四貫四九九文、水損と注記される。領主の変遷は一関村と同じ。「安永風土記」では田五七貫七〇二文、畑二七貫三九八文(うち茶畑四五文)。人頭一〇五、家数一二〇(うち水呑五)、男三五八・女二五五、馬一一四、刈子舟三で作場通用船。御林二、堤四、代数有之百姓は七人、小名は中山なかやま萩谷はぎたに、屋敷名五一をあげる。天和二年(一六八二)以降館下たてしたに三三坪の蔵と二〇坪の吹屋、八坪の会所からなる一関藩の御蔵場が設けられ、初代蔵守は庄兵衛であった(一関市史)

富沢村
とみざわむら

[現在地名]最上町富沢

堺田さかいだ村の西に位置し、おもな集落は最上小国もがみおぐに川や同川支流域の山間に点在する。新田本村鑑は枝郷として松原まつばら明神みようじん荒屋あらや(新屋)ささ(笹森)赤倉あかくら・釜渕・菅野平すがのだいら・塩治平をあげる。最上小国街道がほぼ東西に走り、同街道から分岐南下して赤倉・菅野平を経て田代たしろ峠越で陸奥国加美かみ郡方面へ抜ける道や、赤倉から南西方へ向かい満沢みつざわ村の一刎ひとはねを経て山刀伐なたぎり峠越で村山郡方面へ抜ける山道が通る。最上小国街道に沿う北西方笹森や菅野平には口留番所が置かれた。慶長一六年(一六一一)の小国光忠知行宛行状(佐藤文書)に「仁百かり とミさハ」とみえ、佐藤半七に与えられている。元和八年(一六二二)御前帳写ではとミ沢村とみえ、高四三二石余、寛文四年(一六六四)には高六二六石余、ほかに新田一一石余(新田本村鑑)、明和三年(一七六六)には高一千一七七石余、うち田方八七三石余、反別一四二町二反余、うち田方八五町一反余(吉村本村鑑)、文政一〇年(一八二七)新庄領総高控では竈数一四〇・人数七六一、駄馬五四五。

富沢村
とみざわむら

[現在地名]三春町富沢

北成田きたなりた村の北。郡境に接し、青石あおいし村との東境をうつし川が北流する。永禄四年(一五六一)六月二三日の熊野山新宮年貢帳(仙道田村荘史)に「六段 六百文 と見さわ」とみえ、天正一八年(一五九〇)一〇月九日の熊野新宮領差出帳(片倉文書)には「富沢」とみえる。聖楽しようらくに富沢館跡があり、慶安二年(一六四九)の三春領古城絵図(三春町史)に「城主富沢玄蕃 根廻三百間 高拾間」、本丸は「竪四拾五間 横十二間」とみえ、田母神氏旧記(田母神文書)の東方要害に「富沢居館 富沢伊賀」とみえ、田村氏宿老外連名(片倉文書)には「北方与力五十騎 富沢伊賀守」とみえる。「奥陽仙道表鑑」に天正二年田村清顕の富沢城攻撃によって富沢伊賀守隆冬が降服したとみえ、「伊達治家記録」同一六年四月二九日条に、富沢伊賀顕継は「玄蕃顕景子ニシテ、田村富沢城ニ」住し、伊達政宗の麾下として働きがあったことが記されている。

富沢村
とみざわむら

[現在地名]仙台市富沢・富沢一―四丁目・泉崎いずみざき一―二丁目・鹿野かの三丁目・砂押南町すなおしみなみまち長町南ながまちみなみ四丁目・西多賀にしたが一―五丁目・三神峯みかみね一―二丁目・金剛沢こんごうざわ一―三丁目・西の平にしのだいら一―二丁目・八木山東やぎやまひがし一―二丁目・大谷地おおやち鈎取かぎとり二―三丁目・八木山南やぎやまみなみ一―五丁目・土手内どてうち一丁目

鈎取村の東、名取川左岸の自然堤防および河岸段丘上に立地し、北より標高六〇メートルの三神峯および八木山の中腹よりなだらかな南斜面が続く。それを挟むようにして金洗かなあらい沢とざる川が南東に貫流する。

富沢村
とみざわむら

[現在地名]柴田町富沢

上川名かみかわな村の北、郡北東端の山間に位置し、北は名取郡志賀しが(現岩沼市)、東は同郡北長谷きたはせ(現同上)、西は入間田いりまだ村。東方岩崎いわさき山の麓には富沢磨崖仏群があり、嘉元四年(一三〇六)銘の阿弥陀如来像などがある。富沢館は天正(一五七三―九二)の頃に富沢隠岐が住したといい(安永風土記)、戦国期のものと思われる柴田の長帳(留守文書)には「八十五貫分 富沢(か)太郎」とみえ、巌太郎(藤太郎)は柴田七騎の一人と伝える。

富沢村
とみざわむら

[現在地名]保原町富沢

高成田たかなりた村の南東に位置。集落は東根ひがしね川上流の山間部に散在し、北は所沢ところざわ村。天文七年(一五三八)の段銭古帳に伊達東根のうちとして「とミさハ」とみえ、段銭は一〇貫一〇〇文。同二二年の晴宗公采地下賜録によれば、富沢郷の富沢右馬頭知行分、「りうしやうゐん」分すべてが、宮崎下総に与えられている。なお永正一六年(一五一九)二月、伊達稙宗は村岡内匠助に富沢郷のうちに散在する田八反などを与えた(伊達正統世次考)。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録では高九二一石余。近世初期の邑鑑によると免三ツ五分、家数五五(役家一六、肝煎・小走四、諸職人・寺・禰宜・脇家三五)、人数一三五、役木として柿のほか桑・楮が各少しある。

富沢村
とみざわむら

[現在地名]太田市富沢

福沢ふくざわ村の南にあり、西境をへび川が南流する。西は細谷ほそや村、南は牛沢うしざわ村、東は高林たかはやし村。村央を太田町と牛沢村を南北に結ぶ里道が通る。文和二年(一三五三)三月一九日、足利尊氏が長楽ちようらく(現新田郡尾島町)塔頭普光ふこう庵に寄進した地に「上堀口并富沢内田弐町九段・在家九宇中沢左衛門太郎入道後家尼了順知行分」がある(「足利尊氏寄進状」長楽寺文書)。応永二二年(一四一五)一〇月九日には当地の二町分が称光天皇即位要脚段銭として納められている(「即位要脚段銭返抄写」正木文書)

富沢村
とみざわむら

[現在地名]相馬市富沢

阿武隈高地東縁、北沢きたざわ山東麓の緩傾斜地から台地にかけての日下石につけし川上流域に位置し、東は赤木あかぎ村、南は行方なめかた御山おやま村・栃窪とちくぼ(現鹿島町)。奥州西街道が北の坪田つぼた村から村内を縦断し、御山村に至る。字烏倉からすぐらの沢に発したとみ川は字原田はらだで支流を合せて日下石川となる。天保郷帳には「古者 富沢村・藤木新田弐ケ村」と注記される。天文七年(一五三八)の段銭古帳に宇多うだ庄のうちとして「とミさハ」とみえ、段銭一二貫八〇〇文とある。

富沢村
とみざわむら

[現在地名]裾野市富沢

黄瀬きせ川を挟んでふた新田と伊豆島田いずしまだ村の西に位置し、南は一色いしき(現長泉町)。村域は南東―北西方向に細長く、北西方は愛鷹あしたか山からなだらかに下る裾野に連なり、集落は東部の黄瀬川を臨む平地に南北方向に形成される。表題に慶長八年(一六〇三)の年紀がある検地帳(渡辺家文書、実際の検地は慶長九年か)に「駿東郡富沢村」とみえる。慶長六年に沼津三枚橋さんまいばし城主大久保忠佐領となる(前掲検地帳)

富沢村
とんざわむら

[現在地名]静岡市富沢・小布杉こぶすぎ

藁科わらしな川の中流に位置し、右岸の東は奈良間ならま村。当村から北方の藁科川沿いに赤沢あかざわ村から大間おおま村に至る地域を大河内おおこうち、西の同川支流黒俣くろまた川の昼居渡ひるいど村・黒俣村を小河内こごうちという(駿河記)。慶長四年(一五九九)には横田村詮法度(静岡大学人文学部日本史学研究室蔵)が当村に出されている。領主は安西外あんざいそと新田と同じ。

富沢村
とみさわむら

[現在地名]建部町富沢

東は宮地みやじ村・市場いちば村、西は田地子たじこ村、南はさくら村、北は建部上たけべかみ村に接する平場の村で、村内を備中足守あしもり(現岡山市)への道が通る。津高つだか郡に属し、「備前記」に「富沢村 古ハ小山村ト唱」とある。寛永備前国絵図に小山こやま村とあり、高二八一石余。慶安元年(一六四八)の妙圀寺寄進帳(妙圀寺文書)には小山村と藤田ふじた村がみえ、貞享元年(一六八四)の津高郡高目録(池田家文庫)には小山村高二八一石余、残高三六二石余とある。「備陽記」によると田畠二五町九反余、家数四三・人数二二四、池六。文化年間の「岡山藩領手鑑」によれば直高五〇八石余はすべて池田栄馬の給地。

富沢村
とみざわむら

[現在地名]羽黒町富沢

荒川あらかわ村の西、北流する黒瀬くろせ川と因幡いなば堰の間に位置し、中世の六十里越街道と伝える藤島ふじしま(現藤島町)松根まつね(現櫛引町)を結ぶ道が縦断する。開村年代は六、七百年前とも、また慶長六年(一六〇一)ともされるが、用水源が最上氏時代に開削された因幡堰であることから後者が妥当か。万聞書(光丘文庫蔵)には当村の慶長検地帳と元和検地帳の抜書が掲載されるが辻高は不詳。元和八年(一六二二)庄内藩領となり、同年の酒井氏知行目録では高四三六石余。

富沢村
とみさわむら

[現在地名]石鳥谷町富沢

葛丸くずまる川上流、西・北・東の三方を大瀬川おおせがわ村に囲まれる。元和八年(一六二二)一〇月二五日の南部利直蔵入物成申付状(花巻宗青寺文書)に富沢とある。正保国絵図に村名があり、高一三九石余。元禄十郡郷帳による〆高は田方三〇八石余・畑方一七石余。「邦内郷村志」では蔵分九石余・給分三四一石余、家数二四。享和三年(一八〇三)の仮名付帳では家数二五、うち本村一九で、枝村は黒森くろもり四・はた二。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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