宮之下村(読み)みやのしたむら

日本歴史地名大系 「宮之下村」の解説

宮之下村
みやのしたむら

[現在地名]小海町大字千代里ちよさと

北八ヶ岳がその裾を遠く東に引いて、その末端台地をつくり、比高約一〇〇メートルの千曲川の谷に急角度に落ち込む、その断丘崖下(八三〇メートル)にへばりつくように位置する。その東側を千曲川が北流し、対岸崎田さきだ(現八千穂村)枝郷高岩である。南方本間川との間は千曲川が断崖の裾に迫っているため、佐久甲州往還は段丘上に上がってその縁端を通って本間川に下った。北方本間村に向かっては千曲川に沿って細長く平地が開けている。

高白斎記」に天文一二年(一五四三)九月、武田晴信は「十日若神子に御着、十二日海野口、十五日宮ノ上、十六日前山、十七日御着陣、申刻長窪ノ城被為攻」とあり、また同書天文一七年九月、武田晴信は諏訪郡上原城を立って、甲州矢戸、佐久郡海野口を経て「九日 宮ノ上御陣所、十一日辰刻打立、臼田大雨、前山責落ス」とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報