室村(読み)むろむら

日本歴史地名大系 「室村」の解説

室村
むろむら

[現在地名]西尾市室町

市の東に位置し、東西に連なる山脈と広田こうた川に挟まれた沖積地に開けた集落よりなる。北は広田川をもって岡島おかじま村と境し、東は家武えたけ村、南は善明ぜんみよう村に接し、西は広田川をもって高川原たかがわら村と接する。広田川沿いにある毘沙門びしやもん遺跡は、弥生時代中・後期に属し、別曾山べつそやま遺跡は弥生中・後期の遺物を少量出土。古代の室について「日本地理志料」は、「和名抄」の碧海へきかい郡一五郷の礼を模礼の転訛とし、室をこれにあて、礼郷は室を中心とした平原ひらはら・家武・駒場こまんば永良ながら大和田おおわだ・高河原・尾花おはなの村々にわたると述べている。

室村
むろむら

[現在地名]千種町室

千種川の右岸に位置し、南は七野ひつの村、西は美作国吉野よしの後山うしろやま(現岡山県東粟倉村)と同郡奥海おねみ(現佐用町)。当村と後山村・奥海村にまたがる日名倉ひなくら(一〇四七・四メートル)は聖なる山と崇敬され、神の住む御室にちなんで村名が付いたと伝える。慶長国絵図に村名がみえる。領主の変遷は千草ちくさ町と同じ。正保郷帳では田方二八一石余・畠方六一石余。寛保二年(一七四二)の宍粟郡村々高附(尾崎家文書)によると総反別二五町歩余。享保六年(一七二一)の年貢免状(室区有文書)の村高の右横に「鉄山請負ノ内」との肩書があるが、地内には近世蹈鞴跡はなく、文献にも当村の蹈鞴は見当らない。おそらく鷹巣たかのす村で千草屋源右衛門が操業した時、当村からも為替米(拝借米ともいう)を調達したことを示すと思われる。

室村
むろむら

[現在地名]福知山市字室

むろ山の前面台地上に位置する。正明寺しようみようじ村の枝村。室村の地は、赤土で耕作しがたかったらしく、室山から流出する山水のみによって灌漑され、畑地が多く、江戸中期以後は、米麦と養蚕、薪炭の製産と産犢がおもな産業であった。

福知山藩主として朽木氏が入部以後、旧領地江州高島たかしま(現滋賀県)から川村氏を招き、その指導下に当村を含めた近隣六ヵ村の地に、但馬出石いずし(現兵庫県出石郡出石町)の甲田七右衛門・芦田久右衛門、福知山町の大久保藤右衛門によって新田開発が行われた。いわゆる南郷なんごう新田である。延宝六年(一六七八)右の三人に奉行から下された「室村市寺村正明寺村小野脇村笹尾村岡村都合六ケ村新開場之事」と称する条々(川村家文書)は次のようなものであった。

室村
むろむら

[現在地名]内灘町室

河北潟北端近く、同潟と日本海の間に挟まれ、砂丘を背に潟に面して細長く集落を形成する。南は荒屋あらや村、北は大崎おおさき(現宇ノ気町)。「源平盛衰記」巻二九によれば、寿永二年(一一八三)五月平通盛らの率いる三万余騎が「日角見・室尾・青崎」を通過したことがみえ、室尾は前後の地名から当地に比定される。「三宮古記」の正和元年(一三一二)から文保元年(一三一七)頃の記録とみられる「御油神人」のなかに「ムロノ神人五升」とあり、白山本宮に毎年油五升を負担する白山神人がいたと考えられる。なお貞和二年(一三四六)閏九月一九日の大野おおの(現金沢市)倉月くらつき(現同上)の境界相論を裁定した足利直義下知状案(天龍寺文書)に「大野庄四至、限北倉月庄浜青塚」「塩海者限青塚」とみえ、元文二年(一七三七)の加越能諸郡図籍(金沢市立図書館蔵)などに当地の浜にあお塚が記されることから、両庄の浜境を当地にあてる説があるが(内灘町史)、石川郡とする説もある(加能郷土辞彙)

室村
むろむら

[現在地名]鳴門市瀬戸町室せとちようむろ

撫佐むさ村の北東、島田しまだ島北東部の鳴門海峡に面する細長い小村。大部分が山で、平地は海岸集落部にわずかにある。撫佐村から分村したとされ(鳴門辺集)、寛永一二年(一六三五)の大毛牧馬制札(徴古雑抄)には「むろ」の喜右衛門の名が記される。正保国絵図、寛文四年(一六六四)の郷村高辻帳では撫佐村などとともに島田村として一括される。年未詳の阿波国郡村付(岩村家文書)では当村など四村浦は小島田こしまだ村の枝郷と記される。

室村
むろむら

[現在地名]御所市大字室

巨勢こせ丘陵西北麓、葛城川東岸に位置し、東はじよう村。「古事記」孝安天皇段の「葛城の室の秋津島宮」、「日本書紀」孝安天皇二年一〇月条の「秋津嶋宮」、履中天皇三年一一月六日条の「掖上室山」を「大和志」「大和名所図会」「大和名所和歌集」などは当村とする。「和名抄」葛上郡牟婁むろ郷に属し、中世には室庄と称した(越智郷段銭算用状)。近世初期から新庄藩(桑山一晴)領。慶長郷帳の村高一二〇八・四二石。

室村
むろむら

[現在地名]大垣市室村町・室本町むろほんまち

杭瀬くいせ川左岸、水門すいもん川右岸の平坦地にあり、大垣輪中の中央に位置する。東はみや村。元徳二年(一三三〇)の大井庄三方会料名寄帳(東大寺図書館蔵)にみえる「室宇小法師」は当地の住人であろうか。江戸時代を通じて大垣藩領。慶長郷帳に村名がみえ、村高五八八石余。正保郷帳では田高四九五石余・畑高一〇〇石余。「大垣藩地方雑記」によると、当村は室村・室入方・室町分に分れ、貞享二年(一六八五)の大垣領村々高帳では室村六〇六石余・室町分六一石余・室入方一三六石余・室町長九郎分四三石余。

室村
むろむら

[現在地名]長浜市室町

かつ村の北東にあり、南は大辰巳おおだつみ村。寛永石高帳に高五三八石余とあり、彦根藩領。寛文四年(一六六四)の彦根領分高帳(間塚文書)によると定免で五ツ五分、元禄八年大洞弁天寄進帳によれば男八三・女七七、寺社方男四・女二。「木間攫」によれば、広瀬兵庫頭という武士の屋敷跡があるという。豊臣秀吉は天正一〇年(一五八二)六月一九日、明智光秀の反乱に際して広瀬兵庫頭が長浜城にいた女房を逃がした功として、高山たかやま(現東浅井郡浅井町)甲津原こうづはら(現坂田郡伊吹町)杉野すぎの(現伊香郡木之本町)などで五〇〇石余を宛行っている(甲津原共有文書)

室村
むろむら

[現在地名]豊田市下室しもむろ

矢作川上流部に架かる富国橋の南に位置し、力石ちからいし川の支流山路やまじ川の水源地域である。近世初頭は、幕府三河代官鳥山牛之助支配。慶安四年(一六五一)大島おおしま陣屋(現東加茂郡足助町)の石川備中守知行に移り明治に至る。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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