宝満寺(読み)ほうまんじ

日本歴史地名大系 「宝満寺」の解説

宝満寺
ほうまんじ

[現在地名]別府市浜脇 矢ノ林

かつては浜脇はまわき字宝満寺にあったが、大正年間に現在地に移転。宝籠山と号し、天台宗本尊の十一面千手観音は聖徳太子自刻で斑鳩いかるが(現奈良県斑鳩町)に安置されていたが、皇極天皇二年蘇我入鹿が山背大兄王を討った時、丹波五郎なるものがこの地に隠匿したという伝説がある(豊陽古事談)。養老二年(七一八)に宇佐八幡神の化身といわれる仁聞奇瑞を感じて寺を建て、宝籠山宝満寺と号し、神亀四年(七二七)水田山林、天平勝宝二年(七五〇)に寺田三〇町を寄進されたと伝える。

宝満寺
ほうまんじ

[現在地名]田辺市秋津町

秋津あきづ町の東部、岩倉いわくら山中腹にある。巌倉山と号し、臨済宗妙心寺派。本尊釈迦如来。伝えでは承久の乱後、秋津荘地頭として入部、上秋津(現田辺市)岡畠おかはた城を居城とした塩屋三郎行久の発願で建立、開山は絶照という(続風土記)。天正一三年(一五八五)から同一八年の間に杉若越後守に破却されたが、秋津荘地頭目良弥次郎春湛らによって再興されたと伝え、「続風土記」は寺蔵の古文書である檀那覚に「熊野方(衆)徒、目良方弥次郎春湛、湯川七郎右衛門殿直教、竜神石見守殿、右四人当寺檀那四方」とあると記す。

宝満寺
ほうまんじ

[現在地名]長田区東尻池町二丁目

新湊しんみなと川左岸にある臨済宗南禅寺派の寺。金剛山と号し本尊大日如来。弘仁四年(八一三)空海開基で、もと金剛宝こんごうほう寺と称する真言宗寺院であったが、一ノ谷合戦時の兵火廃墟となり、文永三年(一二六六)当地を訪れた禅宗法灯派の祖無本覚心(法灯円明国師)が再興して禅寺とし、塔頭に南方軒があったという(元禄五年「書上」宗国家文書)。本尊の木造大日如来坐像は胎内銘によると、永仁四年(一二九六)金剛宝寺伽藍安穏・仏法興隆・国土安穏・天下泰平、とくに太上天皇(後宇多上皇)の安穏を祈願し、大檀那沙門幸尊らと大勧進吽日が造立したもので、仏師は定運・定弁・康意・定咸であった。

宝満寺
ほうまんじ

[現在地名]船穂町船穂

山を背にして南に展望が開けた西谷にしのたに景勝の地にある。高野山真言宗で暁滝山千手院と号する。本尊は大日如来。「備中誌」は開山を不明とするが、一説に法道仙人が開いたという。また土地の人は往古当寺を長宝寺とよび、山上に西坊・中坊・北坊が存在したと伝える。縁起や明治初年のものと思われる明細帳(宝島寺文書)では、大化年間(六四五―六五〇)法道の開基とし、寛永年間(一六二四―四四)頼誉(万治二年没)本堂・大師堂・客殿を再建して中興の祖とされている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報