宜野湾間切(読み)じのーんまぎり

日本歴史地名大系 「宜野湾間切」の解説

宜野湾間切
じのーんまぎり

現宜野湾市域にあたる。北は北谷ちやたん間切、東は中城なかぐしく間切、南は浦添うらしー間切、西は東シナ海に面する。中頭方に属し、「琉球国旧記」「球陽」では宜野湾郡・宜野湾県ともみえる。古琉球の間切・シマ制度下では浦添間切内に含まれていて、「かかす」「ちやな」「きとむなわ」「きのわん」「ゑさ」などのシマ名が「おもろさうし」巻一五に散見する。近世当初浦添・中城・北谷の各間切の一部であった。元和七年(一六二一)三月一六日の尚恭浦添王子朝良宛知行目録(高嶺家文書)では「我仁横村」「儀野湾村」「加賀寿村」「謝那村」がみえる。康熙一〇年(一六七一)に浦添間切から、我如古がにく宜野湾じのーん神山かみやま嘉数かかじ謝名具志川じやなぐしかわ(大山)大謝名おおじやな宇地泊うちどうまい喜友名ちゆんなー新城あらぐしく伊佐いさの一〇ヵ村、中城間切から前普天間めーふていま(野嵩)寺普天間ていらふていま(普天間)の二ヵ村、北谷間切から安仁屋あんな村を分割し、新たに真志喜ましち村を立て計一四ヵ村で宜野湾間切が創設された(「球陽」尚貞王三年条など)。村政を執行する間切番所は宜野湾村に置かれた(琉球国旧記)。里積記によれば首里城から番所までの距離は一里七合六勺五才(一里二七町余)。「琉球国由来記」でも一四ヵ村がみえるように以後近世を通じて村数の変化はなかった。なお元禄国絵図・元禄郷帳・天保国絵図・天保郷帳など江戸幕府が作成した国絵図・郷帳類に当間切名はみえず、浦添間切のうちとして把握されていた。

按司地頭は尚弘善(宜野湾王子朝義)惣地頭は章惟列(宜野湾親方正親、「球陽」では亀方親方とある)が任命された(「球陽」前掲条)。また地方役人として地頭代に宇地泊大屋子、夫地頭に桃原・佐喜真・知念の大屋子(のちに親雲上となる)が置かれた(琉球国由来記)。このうち佐喜真大屋子については康熙二〇年の設置である(「球陽」尚貞王一三年条)。このほか首里大屋子・大掟・南風掟・西掟のほか、宜野湾・野嵩ぬだき普天間・安仁屋・喜友名・大山うやま高良たから・嘉数・我如古の村掟がいて間切・村の行政にあたった(琉球国由来記)。明治六年(一八七三)の按司地頭は尚泰王の次男尚寅宜野湾王子朝広(家禄・領地作得高は不明)、惣地頭は宜野湾親方朝邦で家禄八〇石(物成二六石余)、領地作得は二八石余であった(琉球藩雑記)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報