宇佐八幡神社(読み)うさはちまんじんじや

日本歴史地名大系 「宇佐八幡神社」の解説

宇佐八幡神社
うさはちまんじんじや

[現在地名]由良町里

さとの東部山麓に鎮座祭神住吉大神・応神天皇・国主くにぬし大神はたなか門前もんぜん・里・横浜よこはまこまの産土神で、旧村社。「続日高郡誌」によると、もと神崎かんざき山の麓、わにぶちに鎮座していたが、その後、武田城たけだじようだんに遷座、正治二年(一二〇〇)名古なごしばへ、建治二年(一二七六)すだれ山の麓平石ひらいわ(浜の宮、以上現由良町)へ、永仁四年(一二九六)一一月網掛あみかけ(渚の森)の現在地に遷座した。建治二年遷座の時、西方さいほう(のちの興国寺)を建立した当地の地頭願生(葛山五郎景倫)が、宝鏡を神殿に納めたといわれる。現在、応仁二年(一四六八)・明応五年(一四九六)・永正一五年(一五一八)・慶長一二年(一六〇七)・元和九年(一六二三)の棟札が残る。

宇佐八幡神社
うさはちまんじんじや

[現在地名]鳴門市撫養町黒崎

黒崎くろさき池の南西、字八幡やはたにある。主祭神は応神天皇・仲哀天皇・神功皇后。旧郷社。創立年代は明らかでない。寛保改神社帳に宇佐八幡と記され、「鳴門辺集」には斎田さいた村の項に八幡宮とあり、黒崎・斎田両村の産土神。社伝では慶長年間(一五九六―一六一五)に播磨国の人七郎兵衛(のち馬居氏)らにより塩浜が開かれた際、その発願により豊前宇佐宮の分霊を当地に勧請し、産土神としたという。

宇佐八幡神社
うさはちまんじんじや

[現在地名]神山町下分

西寺にしでらに鎮座する旧郷社。たつの宮ともよばれる。祭神は応神天皇・神功皇后・仁徳天皇・多紀理比売命・多紀都比売命・市杵島比売命。鎌倉時代初期に小笠原氏が豊前宇佐宮の分霊を勧請したと伝えられる。鎌倉末期に田口氏(一宮氏)が勧請したともいわれる。その後荒廃していた社殿を麻植おえ川島かわしま(現川島町)植桜うえざくら城主篠原長房が永正四年(一五〇七)に再興したという。寛保改神社帳に宇佐八幡とみえてら名に祀られ、神主上山かみやま下分しもぶんの太郎大夫、禰宜は同村の泉大夫・加大夫・源大夫・市川大夫・作大夫であった。

宇佐八幡神社
うさはちまんじんじや

[現在地名]北条市磯河内 森

もりの山の上にあり、天照大神・市杵島姫命・田心姫命・足仲彦命・誉田別命など一一神を祀る。旧郷社。

由緒によれば、海沿いの粟井坂あわいざかに勧請された神社で、天慶年間(九三八―九四七)越智好方が藤原純友征伐の祈願をしたと伝え、治承五年(一一八一)反平家挙兵を行った河野通清の子通孝・通員は、白石・牛淵・田窪らの諸将とともに戦勝を祈願した。また通清の子通信は粟井坂戦死した父や兄の仇を討つため神前で祈願し、敵の西寂を倒し、平氏滅亡後は源頼朝の命で当社を磯河内宮の鼻いそこうちみやのはなに移転して粟井明神と称し、粟井地区・五明ごみよう地区二五ヵ村の大氏神と定めたと伝える。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報