天英院(読み)てんえいいん

朝日日本歴史人物事典 「天英院」の解説

天英院

没年寛保1.2.28(1741.4.13)
生年:寛文2?(1662)
江戸幕府6代将軍徳川家宣御台所近衛基煕の娘。照姫君と称した。諱 は煕子。延宝7(1679)年江戸の桜田御殿に住居していた甲府城主時代の家宣婚姻。1男1女を儲けたが,ともに夭折。宝永1(1704)年家宣が5代将軍徳川綱吉の養嗣子に定まったため,江戸城西丸大奥に入った。生家である近衛家との連絡は密で,朝廷に関わる幕府の方針をしばしば事前に知らせた。7代将軍徳川家継(生母月光院)没後将軍継嗣問題では,紀伊藩主徳川吉宗を推し,吉宗就任後も厚過された。従一位に任じられたため一位様とも称される。墓所は芝増上寺。<参考文献>『徳川諸家系譜』1・2巻

(久保貴子)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「天英院」の解説

天英院 てんえいいん

1662?-1741 江戸時代前期-中期,徳川家宣(いえのぶ)の正室
寛文2年?生まれ。近衛基煕(このえ-もとひろ)の娘。延宝7年甲府城主徳川綱豊(家宣)と結婚,2児を生んだがともに夭折(ようせつ)した。宝永6年家宣が将軍になると御台所(みだいどころ)となり,正徳(しょうとく)2年家宣が死ぬと出家した。寛保(かんぽう)元年2月28日死去。80歳?名は煕子(ひろこ)。通称は一位様。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例