大草郷(読み)おおくさごう

日本歴史地名大系 「大草郷」の解説

大草郷
おおくさごう

現松江市佐草さくさ町・大草町地域に比定される国衙領。古代には出雲国府が所在した。元久二年(一二〇五)四月二二日の関東下知状(北島家文書)によれば、出雲国惣社(現六所神社)の神官らが「大草郷」地頭助光の代官家重による狼藉を訴えており、執権北条時政は出雲守護に両者の言い分を聞いて沙汰するように命じている。これは承久の乱以前に幕府御家人が地頭となっていることを示す数少ない例である。一三世紀中頃になると杵築大社(出雲大社)の国造出雲義孝の支配が及んでくる。建長三年(一二五一)八月日および同五年一二月日の出雲国司庁宣(千家家文書)では、伊弉諾いざなぎ(現真名井神社)造営のための料田を国衙に代わって義孝が沙汰・知行することを認められており、造営料田とされた惣社灯炉田一町と料田五反および政盛跡屋敷が大草郷に存在した。

大草郷
さくさごう

和名抄」所載の郷。諸本とも訓を欠くが、サクサであろう。「出雲国風土記」によれば、意宇郡一一郷のうちで郡家南西二里余に郷長の家があり、須佐命の御子青幡佐久佐丁壮命が鎮座していたので、大草と称したという。オオクサとするのは表記より転じたのであろう。中世は大草郷とともに佐草郷とみえ、江戸時代は大草おおくさ村・佐草村(現松江市)として継承されている。

大草郷
おおかやごう

「和名抄」諸本に「於保加也」の訓を付す。遺称地はないが、かつての巨濃この郡・法美郡の郡境十王じゆうおう峠の西方大茅おおかや山があり、その南を南西流するふくろ川上流域は大茅谷と通称されるので、同川上流域一帯に比定される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報