法美郡(読み)ほうみぐん

日本歴史地名大系 「法美郡」の解説

法美郡
ほうみぐん

因幡国の東部にあり、全体としてL字形を呈する。北は日本海に面し、北東は巨濃この(岩井郡)、東は但馬国、南は八上やかみ郡・八東はつとう郡、西は邑美おうみ郡に接する。中世末までの郡域は現在の岩美いわみ国府こくふ町・福部ふくべ村と鳥取市の東縁部に相当し、近世初期以降現福部村域は岩井いわい郡に属した。東部におうぎノ山山系の山間部、西部はふくろ川流域の平野、北部は低山地で、その北側海岸部には砂丘が発達する。南半部は袋川が南西へ流下したのち上地わじ川と合流して北西流。稲葉いなば山は袋川と北部を北流する塩見しおみ川との分水嶺にあたる。

〔古代〕

和名抄」東急本国郡部は郡名に「波不美」の訓を付し、「国府」と注記される。延暦三年(七八四)に成立したとされる伊福部臣古志(伊福部家文書)によると、孝徳天皇二年(六四六)に因幡国に初めて「水依評」が設置されて伊福部都牟自が評督に任ぜられ、のち都牟自の嫡流が法美郡司、庶流が邑美郡司となったという。伊福部氏は当郡の伝統的豪族で、平安時代後期には有力な在庁官人となり、宇倍うべ(現国府町)や惣社の神官をも兼務していた。伊福吉部徳足比売骨蔵器の銘に和銅三年(七一〇)一一月一三日の日付とともに「因幡国法美郡伊福吉部徳足比売臣」とみえる。徳足比売は慶雲四年(七〇七)二月二五日に従七位下に叙せられ朝廷に出仕したが、和銅元年七月一日に没し、同三年一〇月火葬にされた。伊福部一族と朝廷とのかかわりがうかがえよう。「三代実録」元慶六年(八八二)一一月一日条には「因幡国法美郡人左大史正六位上丸部臣百世男三人女一人」が本居を右京二条に移したとある。「和名抄」東急本は大草おおかや石井いわい高野たかの津井つのい稲羽いなば服部はとり広西ひろせの七郷を記す。同書高山寺本では石井・高野両郷は巨濃郡に、東急本で巨濃郡に含まれる罵城とき郷を当郡に記し、広西郷は広城郷と記される。国府は稲羽郷に置かれていたと推定され、鳥取平野北東部袋川左岸の現国府町中郷ちゆうごう安田あんだで国庁跡が発見されている。法美郡の郡衙もその付近に置かれていたとする説があるが不明。条里地割は西方の平野部に顕著に認められる。白鳳期創建と推定される寺院跡としてとうつぼ廃寺・岡益おかます廃寺・栃本とちもと廃寺などがあり、奈良時代の国分寺跡・国分尼寺跡、平安時代初期の源門げんもん寺廃寺、学行がくぎよう院には廃絶した光良こうりよう寺の遺仏という薬師三尊像と吉祥天立像がある。特殊な石造物である岡益石堂(以上現国府町)は白鳳期―奈良時代のものという。「延喜式」神名帳に「多居乃上タコノウヘノ神社二座」「意上奴イカム神社」「槻折ツキヲリ神社」「荒坂アラサカ神社」「手見テミ神社」「服部ハトリ神社」「美歎ミタニノ神社」「宇倍ウベ神社」が記載され、宇倍神社は名神大社

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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