大淵村(読み)おおぶちむら

日本歴史地名大系 「大淵村」の解説

大淵村
おおぶちむら

[現在地名]富士市大渕おおぶち

厚原あつはら村の北東愛鷹あしたか山の西麓丘陵に立地する。「延喜式」兵部省諸国馬牛牧条にみえる駿河国の「蘇弥奈馬牧」を地内の字曾比奈そひな付近に比定する説がある。永仁六年(一二九八)の日興本尊分与帳(北山本門寺文書)によれば、日興が本尊を分与した弟子として「富士上方曾比奈郷住人楠王児」がみえる。元亀四年(一五七三)一二月二日付武田家朱印状(大淵村共有文書)によれば、武田家は同家の傘下に入って忠節に励んできた「大淵衆」に対し、適当な闕所地がないためにその働きにふさわしい所領を与えていなかったが、必ず所領を与えると約束している。

大淵村
おおふちむら

[現在地名]皆野町大淵

北流する荒川の左岸、東流する赤平あかびら川の合流点北方に位置する。北は金崎かなさき村、南西は野巻のまき村、南は赤平川を境に小柱おばしら(現秩父市)。赤平川沿いに信州に通じる道と荒川水系の金沢かねざわ川沿いに北上して上州へ通じる道の起点で、また荒川の対岸東方皆野村との間には秩父巡礼道の栗谷瀬くりやせの渡がある。現東京都青梅市の塩船しおふね観音寺蔵の応安六年(一三七三)閏一〇月五日の年紀をもつ大般若経奥書に「秩父郡大淵郷長楽寺書写畢」とある。また児玉党系図(諸家系図纂)によると秩父平四郎行高の子高重が大淵平二郎を名乗っている。

大淵村
おおぶちむら

[現在地名]笠間市大淵

涸沼ひぬま川と飯田いいだ川の合流点付近にあり、北は飯田村、南西は笠間城下に続く。中世は笠間氏の支配下にあり、弘安大田文に東郡として「大淵九十四丁二段六十歩」とあり、嘉元大田文には「大淵廿六丁四段六十歩」とある。天正一八年(一五九〇)笠間氏は宇都宮氏に滅ぼされたが、笠間城を預かった玉生忠勝は水戸城主江戸氏と村内の一丁田いつちようだで戦い(金沢の戦)、江戸氏軍を敗退させている(笠間城記)

江戸時代は笠間藩領で、「寛文朱印留」に村名が載る。「郡官日省録」(武藤家文書)によると慶安二年(一六四九)の検地で村高六六三・七一一石となり、万治三年(一六六〇)・延宝四年(一六七六)の新開検地で合せて九石を打出す。

大淵村
おおぶちむら

[現在地名]酒田市大淵

京田きようでん川下流右岸の広野新田ひろのしんでん村南東にある。建武元年(一三三四)大淵治郎大輔時興の開村と伝える(大淵記)。南北朝期藤島ふじしま(現東田川郡藤島町)に入った北畠氏に従って美濃国大淵村から当地にきた大淵時興が大淵館に居住したという。のち仏門に入り、正平一〇年(一三五五)藤島村(現藤島町)曹洞宗大洞だいとう寺を開山した。

大淵村
おおぶちむら

現大淵に比定される。中世は河崎かわさき庄のうち。元中四年(一三八七)一〇月一七日の覚書(五条家文書/史料纂集、以下断りのない限り同上)によれば、「大淵河内築足」(月足)にいた五条頼治は後征西将軍宮から剣を下賜されている。明徳三年(一三九二)八月二二日、宗金(五条良遠)矢部やべ(現矢部村)と当村を孫の阿鼎に譲っている(五条宗金譲状)。応永三二年(一四二五)六月一二日宗剛(五条頼治)は当村のうち八勝蒔はつしようまき(八升蒔)の地と布蔵原を五条頼経に、井依谷を同頼重に譲っている(宗剛譲状)

大淵村
おおぶちむら

[現在地名]篠山市大淵

和田わだ村の北にあり、はた川が流れる。東部の土居の内は戦国期の畑氏一族の居館の跡とされる。古くは里畑さとはた村のうちで、正保郷帳に「大淵村」とみえ、田高一四八石余・畠高二四石余。元禄郷帳では里畑を冠称する。「丹波志」では宗部そがべ郷のうちで、高一五四石余。天明三年(一七八三)の篠山領内高並家数人数里数記では畑組で、家数二三・人数九六。「多紀郡明細記」によれば、山役米四石八斗のほか薪三一荷余・瓦焼木一六束などを納め、家別一九・人別一〇六、牛八で、禅宗浄居じようご寺・長徳ちようとく寺、大淵古館などが記される。

大淵村
おおぶちむら

[現在地名]土佐町大淵

鎌滝かまたき山東南の山間に位置する。長岡郡本山もとやま郷に属し、「土佐州郡志」では大川内おおかわうち村内の一小村とされている。天正一七年(一五八九)の本山郷地検帳の古味こみ名のうちに「自是大淵」と記され、村名もみえる。検地面積一町八反余、うち下田二七代・下畠一反余・中屋敷六反余・下屋敷一町余で、名本分七反余、残りは公事分。屋敷一五、うち居屋敷一〇・明屋三。

大淵村
おおぶちむら

[現在地名]遊佐町大蕨岡おおわらびおか

蕨岡村の西にあり、北は鹿野沢かのさわ村。村名の由来は以前日向につこう川の支流が当村近くで大きな淵となっていたことによるという。元和八年(一六二二)の酒井氏知行目録には蕨岡村大淵分一八五石余とあり、蕨岡村の枝郷となっていた。寛永元年庄内高辻帳には大淵村として高二一八石余とあり、蕨岡村から分村。享和三年(一八〇三)には家数二〇・人数九七(「村数家数人高控帳」斎藤文書)

大淵村
おおぶちむら

[現在地名]上越市大淵

東吉尾ひがしよしお村の南、桑取くわとり川の谷に位置。正保国絵図によれば高一二三石余。天和三年郷帳では一一四石一斗。白山権現宮があり、横山よこやま村社人岩片右内支配(頸城郡誌稿)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報