笠間城下(読み)かさまじようか

日本歴史地名大系 「笠間城下」の解説

笠間城下
かさまじようか

[現在地名]笠間市笠間

笠間城の西方、涸沼ひぬま川と佐白さしろ山に挟まれた東西六〇〇メートル・南北二キロの細長い平坦地につくられた城下町で、現笠間市の中心市街地を形成する。

〔町の形成〕

笠間城の山城は鎌倉時代前期に築かれたと伝えられるが(笠間城記)、きわだった町の形成はなかった。天正一八年(一五九〇)小田原戦役で北条方に味方した笠間氏は宗家宇都宮氏に滅ぼされ、宇都宮氏の家臣玉生忠勝が城主となり、文禄三年(一五九四)城下町の建設に取りかかった。隣村石井いしい村住民をおお町と高橋たかはし町へ移し、さらに石井村にあった極楽ごくらく寺と福智ふくち院を三所さんじよ明神の南側と現在の月崇げつそう寺の南側に移転させた。町の職事は検断・老・年寄が行い、笠間城への登城路を改修して大町中央の威福いふく院の側から結んだ。慶長三年(一五九八)宇都宮城主蒲生秀行の家臣蒲生郷成が城主となったが、わずか四年の間に笠間城の天守櫓を築き、城と町を結ぶ地に武家屋敷町として町をつくり現在の登山路を開いた。また涸沼川の上流に堰を築いて(現関場)、城下の東側を縦断し、下市毛しもいちげ村から再び涸沼川へ落す約四キロの用水路を開削した。用水は上市毛村と下市毛村の水田を潤すほか城下の防火用水の役目も兼ね、蒲生がもう用水とよんでいる。

慶長七年藩主松平康重の時、水戸の佐竹氏家臣車丹波が佐竹氏秋田転封に絡んで反抗したが、笠間町人は鎮撫に功があったので、町地代持高諸役を免除する次の免許状(「笠間町石井村上市毛村古事取調記」牧野家文書)が出された。免許状はのち代々の藩主に確認され、証文も出された。

<資料は省略されています>

慶長一八年藩主松平康長の時に高橋町の西に高橋新たかはしあら(のち荒町となる)がつくられ(正保二年「常陸国笠間之城下絵図」内閣文庫蔵)、寛永一七年(一六四〇)藩主浅野長直の時に大町の西側の田を埋めてしん町がつくられた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の笠間城下の言及

【笠間[市]】より

…近年は墓石の需要が多い。【中川 浩一】
[笠間城下]
 江戸時代の笠間は譜代大名の城下町であり,佐白山の城郭を中心に,それをとりかこむ田町,大和田に侍屋敷が配置されていた。町屋は大手前の街道筋に立ち並び,その外側に足軽や小役人屋敷があった。…

※「笠間城下」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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