大森藤頼(読み)おおもり・ふじより

朝日日本歴史人物事典 「大森藤頼」の解説

大森藤頼

没年:文亀3.11.2?(1503.11.20)
生年:生年不詳
室町戦国時代武将。大森氏最後の小田原城主。式部少輔,信濃守。太田道灌の謀殺などにつき主君扇谷上杉定正を諫めたことで名高い氏頼の次男。父氏頼が明応3(1494)年8月に死去したとき兄実頼はすでに死亡していたため,家督を継いで小田原城主となるが,翌4年9月,北条早雲により城を奪われた。この事件について『相州兵乱記』などは,早雲が藤頼に故意に近づき,ついには鹿狩りを口実として急襲したように伝えているが事実ではなかろう。この小田原城主の交代には,定正の没後,古河公方足利成氏が山内上杉顕定側に立ったことなど,大森氏を取り巻く情勢変化が大きく関係していたものとみられる。また城を奪われた藤頼は真田城(平塚市)に逃れたと一般にはいわれているが,そこは上田氏の要害であり,これも事実とは思えない。同5年7月,顕定は相模の西部に攻め入り,早雲および扇谷上杉方の拠点を襲撃するが,その状況を越後守護代長尾能景に伝えた顕定書状(宇津江氏所蔵)の書きぶりでは,藤頼の居所は真田城よりも西方に位置している。その後,藤頼は甲斐に走ったとも,三浦氏を頼って新井城に逃れそこで死んだともいう。明応7(1498)年死亡説もある。情勢の変化に対応できず,家を滅ぼした武将といえようか。<参考文献>『小田原市史料』歴史編

(佐脇栄智)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「大森藤頼」の解説

大森藤頼 おおもり-ふじより

?-? 室町-戦国時代の武将。
大森氏頼(うじより)の次男。明応3年(1494)父の死去にともない相模(さがみ)(神奈川県)小田原城主となる。翌年北条早雲の夜討ちをうけて城をうばわれる。相模真田(さなだ)城にのがれてたたかったが敗れ,一族は滅亡した。号は不仁庵。

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世界大百科事典(旧版)内の大森藤頼の言及

【大森氏】より

…中関白藤原道隆の子孫親家が駿河国駿河郡大森(現,静岡県裾野市)に住し,大森氏を称したという。1416年(応永23)上杉禅秀の乱で難をさけた鎌倉公方足利持氏を,大森頼春と弟36世箱根権現別当証実がかくまい,鎌倉復帰を助けた。その功により,持氏から禅秀方の土肥・土屋両氏の旧領を与えられ,相模小田原に築城した。これ以後大森氏は,相模西部を支配する有力武士として着目されるに至った。古河公方足利成氏(しげうじ)討伐のため,頼春の子氏頼,その子実頼に対し,将軍足利義政は御内書(ごないしよ)を送っている。…

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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」