大栄寺(読み)だいえいじ

日本歴史地名大系 「大栄寺」の解説

大栄寺
だいえいじ

[現在地名]氷見市小境

小境こざかい南端、海岸近くにあり、墓王山と号し、浄土宗本尊阿弥陀如来。もとは小境山墓王大円だいえん寺と称した。寛延二年(一七四九)の由緒書(寺蔵)には、開化天皇二五年に天竺マガダ国から法道上人(当時七〇〇歳)が来日し、小境の地に大円寺を建立し、一九三年とどまり、垂仁天皇八八年に摂津に去ったという。法道伝説は十一面観音像にまつわるもののようである。中世には当初時宗の影響を受けたとし、西念さいねん寺末であったとされる。後醍醐天皇の第八皇子信濃宮光然良明法親王にかかわる開山伝承があるが、この法親王は後醍醐天皇皇子宗良親王とする説と亀山天皇皇子恒明親王の子明光宮とする説がある。

大栄寺
だいえいじ

[現在地名]結城市山川新宿

山川新宿やまかわしんじゆくの集落東南部に所在。明王山と号し真言宗豊山派。本尊不動明王坐像(県指定文化財)にちなんで山川不動尊と通称される。初め大恵だいえい寺といったが、明治二七年(一八九四)大栄寺と改称上山川かみやまかわ村に一六石余の寺領を有していた(法無綴)。山川不動尊略縁起によれば、慶長六年(一六〇一)山川氏に仕えた大恵によって建立され、不動明王坐像は平将門の守本尊であったとする。「山川不動尊小史」によれば寛政一一年(一七九九)本堂などが焼失、文政一一年(一八二八)に門前七軒が焼失、天保四年(一八三三)仁王門・惣門・観音堂が残らず焼失、嘉永二年(一八四九)にも籠堂が焼失したが、近世末には門前店・旅館など七軒が立並んでいたといい、明治初期の切図や地籍図からも門前町的様相を呈していたことがうかがえるし、その名残は今日でもみることができる。

大栄寺
だいえいじ

[現在地名]熊本市白藤町

白藤しらふじ町の中央部、宗伝そうでん寺の北西にあり、金光山と号し、浄土真宗本願寺派、本尊は阿弥陀如来。「国誌」によれば文禄二年(一五九三)覚祐の開基で、その後退転し、元禄五年(一六九二)了玄の再興とある。寺内に石浦経国墓と伝えるものがあり、「国誌」は仁平三年(一一五三)国主石浦河内守経国が大栄寺を建立したという説を載せ、経国は久安六年(一一五〇)肥後に下向したという。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報