大岩村(読み)おおいわむら

日本歴史地名大系 「大岩村」の解説

大岩村
おおいわむら

[現在地名]静岡市大岩本町おおいわほんちよう・大岩一―四丁目・大岩町・大岩・大岩宮下町おおいわみやしたちよう丸山町まるやまちよう浅間町せんげんちよう一―二丁目・安東柳町あんどうやなぎちよう

賤機しずはた山の南、駿府浅間社(静岡浅間神社)の南東に位置し、東はやなぎ新田村など。村名の由来は賤機山に大岩があったとする説や(修訂駿河国新風土記)、大岩天神にちなむとする説がある(駿河志料)。中世は大岩郷と称されていた。慶長一四年(一六〇九)一二月の彦坂光正駿府浅間社領所付写(旧新宮神主文書)によると、当村の九二〇石が駿府浅間社領であった。元禄郷帳では高一千一六四石余。国立史料館本元禄郷帳に駿府浅間社領・臨済りんざい寺領とある。

大岩村
おおいわむら

[現在地名]豊橋市大岩町

東海道(現国道一号)に沿い赤石あかいし山脈の南麓にある。明治一四年(一八八一)の「大岩村誌」に「本村古時文武二年岩根庄大岩村ト称シ岩屋山麓ニ居村ス、保延元乙卯年字本郷ヘ移村ノ時大岩村ト称ス、亦天正十一癸未年字元屋敷ヘ移村致シ、尚正保元甲申年字東郷内・西郷内エ引越、二川駅ト連属シテ大岩町ト称シ」とあるが、典拠は不明。

建武三年(一三三六)の後醍醐天皇綸旨(白河結城文書)に「大岩郷」の名がみえる。

大岩村
おおいわむら

[現在地名]君津市大岩

辻森つじもり村の東、小糸こいと川上流に位置する。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高九四石。正保国絵図も同高で、元禄郷帳では高四七石。石高の減少は正木まさき村分か。天保郷帳でも高四七石。寛永一八年(一六四一)から市宿いちじゆく村と同じく旗本曾根領。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では家数二一。寛永二一年の周東郡大岩村検地帳写(大岩区有文書)によれば田一反余、畑は上畑一町五反余・中畑二町四反余・下畑三町九反余・下々畑一反余、名請人中に宝性ほうしよう寺がみえる。

大岩村
おおいわむら

[現在地名]茨木市大岩

生保しようぼ村の西、標高約三〇〇メートルの国見くにみ山の北にあり、国見・新堀あらぶり中谷なかんたに大北おぎたの諸集落からなる。福井ふくい村から北上する亀山かめやま街道が村の中央を通る。慶長一〇年(一六〇五)の摂津国絵図には大岩村と国見村がみえ、近世初期には五ヶ庄ごかのしように属した。寛永―正保期(一六二四―四八)の摂津国高帳によると高三二三石余。領主は五ヶ庄の項参照。福井村との境にある国見山をめぐっては同村との間で山論が絶えなかったようである(→福井村

大岩村
おおいわむら

[現在地名]佐伯町丸山まるやま

吉井川東岸、妙見みようけん(五一九・二メートル)の東南台地上にある。東は岸野きしの(現和気町)、西は北山方きたやまがた村、北は美作国英田あいだ上山うえやま(現英田町)上山村へ抜ける道があり、国境は「打札たは」とよばれた(吉備温故秘録)。慶長一八年(一六一三)和気郡御勘定帳に村名がみえ、物成一四石余、夫米八斗余。同一〇年の備前国高物成帳(備陽記)では、日笠ひかさ保に含まれる。寛永備前国絵図によれば高三〇石余。「備陽記」では田畠四町三反余、家数一五・人数六七、岡山城下さかえ町まで道程九里、池一とある。

大岩村
おおいわむら

[現在地名]緒川村大岩

村は西と南北を高岩たかいわ山などの山に囲まれる。西北部に発する小舟こぶね川は村内を東へ流れ、東の小舟村へ入り、那須街道が村内を東西に通る。「新編常陸国誌」に「コノ村ノ山中ニ巨岩アリ、高四丈余、幅十四五間、其形状人ノ坐セルニ似タリ、村名之ニヨリテ起ル、中世大岩氏アリ、此地ニ出ヅ」と記される。

佐竹知行目録(彰考館蔵)の文禄四年(一五九五)八月一一日に「一、五十石 大岩の内 清水兵部少輔」とある。

大岩村
おおいわむら

[現在地名]大淀町大字大岩

今木いまき村の北方山中に立地。きた郷のうち。慶長郷帳では村高一五四・〇七石、幕府領(代官中坊左近)。元和五年(一六一九)郡山藩(松平忠明)領となり、同藩の二割半無地高増政策で村高は一九二・五八八石となる。延宝七年(一六七九)幕府領に編入された。

小字宮山に大岩神社がある。祭神は天羽槌稚命・応神天皇。神体は男女神各三体ずつ六体の八大竜王神(二体欠)で、藤原風を伝える鎌倉初期の彫刻。古来、吉野郡水分みくまり三社の一つと称し、八大竜王社といったが、明治初年改称。

大岩村
おおいわむら

[現在地名]足利市大岩町

大岩山南麓の山里で、山麓の低地を蓮岱寺れんだいじ川が南西流する。南西は五十部よべ村。文和二年(一三五三)一二月二六日の関東公方足利基氏御判御教書(鶏足寺文書)に「足利庄大岩寺」とみえる最勝さいしよう寺がある。「足利長尾顕長家来」に当村の者として大岩大助(永五〇貫文)と小畑備中守(永八五貫文)の名がみえる。寛永一〇年(一六三三)には下総古河藩領、正保元年(一六四四)分家の土井利直領となったと思われるが、寛文四年(一六六四)の土井利房領知目録に村名が載る。

大岩村
おおいわむら

[現在地名]会津高田町西本にしもと

明神みようじんヶ岳東の中腹にあり、東はかぶと村、西は狭間はさま峠を越えて沢中さわなか(現柳津町)。村の南の観音堂の傍らに高さ一〇メートルの巨岩があるための村名という。近世は会津領から寛永二〇年(一六四三)以降南山御蔵入領で、冑組に属した。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録では高六一石余。文化一五年(一八一八)の南山御蔵入領組村高帳では高六七石余。

大岩村
おおいわむら

[現在地名]藤岡町大岩

現町域最北端に位置する。元久二年(一二〇五)建立の石塔がある(藤岡村誌)獅子ししはなとよばれる標高五五七メートルの山上に大岩城跡がある。「三河国名所図絵」によれば、大岩久蔵という盗賊が住み、一五〇人余りの集団をなしていたが、家康の命により小原おばら(現小原村)の鈴木越中守はじめ伊保いぼ挙母ころも(現豊田市)諸臣に追われ美濃に逃げたという。

大岩村
おおいわむら

[現在地名]富士宮市大岩

上小泉かみこいずみ村の北、富士山南西麓の丘陵に立地する。寛永改高附帳に大岩村とみえ、田方一六二石余・畑方一五二石余。元禄郷帳では大岩東組二二七石余、同西組一二九石余。国立史料館本元禄郷帳によれば両組とも甲斐甲府藩領。文化一三年(一八一六)には旗本大森・玉虫・松平の三氏領(測量日記)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報