国見村(読み)くにみむら

日本歴史地名大系 「国見村」の解説

国見村
くにみむら

[現在地名]太田町国見

斉内さいない川の扇状地にあり、六郷(現六郷町)角館かくだて(現角館かくのだて町)を結ぶ街道が通る。東は斎内さいない村、西は金鐙かなぶみ村・村杉むらすぎ村・沖野郷おきのごう村(現中仙なかせん町)に接する。

延宝六年(一六七八)の乍恐口上書を以申上候御事(太田町郷土史資料)に「国見村上関之儀ハ延宝五年巳年高畑村刑部御忠進申上候」とあり、たま川から取水するうわ堰を斉内川を越えて村域に引き入れ、田地が開かれ、開村した。小貫高畑おぬきたかばたけ(現大曲市)の刑部が肝煎を勤めたが、欠落百姓が続出し、同九年からは鍬延している近隣の斎内村・駒場こまば村、東長野ひがしながの村・金鐙村・村杉村・野口のぐち村・黒土くろつち村・米沢新田よねざわしんでん(現中仙町)の肝煎が連帯して肝煎を勤めた。米沢新田村などを開いたしも堰を、斉内川を越して国見村に引水する計画を延宝八年に上申した米沢新田村肝煎理左衛門は貞享元年(一六八四)工事を完了した。

国見村
くにみむら

[現在地名]羽黒町玉川たまがわ

羽黒山の西麓に位置する。東の小丘上に手向とうげ村があり、古くは村内を羽黒権現社への表参道が通っていたといい、また善見よしみ村と称したという。南は村杉番むらすぎばん村。耕雲種月開基年譜私録(種月寺文書)康正元年(一四五五)条に「国見」とみえる。永禄三年(一五六〇)書写の「羽黒山睡中問答并縁記」には「三番千勝寺六百坊従池頭国見マテナリ」とあって、手向村池頭いけがしらから当地までの小丘に、羽黒山千勝寺(現廃寺)の僧坊が六〇〇坊も立並んでいたとされる。元和八年(一六二二)庄内藩領となり、同年の酒井氏知行目録では高四六五石余、ほかに玉川ぎよくせん寺領四石余があった(同年庄内寺社領目録)

国見村
くにみむら

[現在地名]金沢市国見町

大平沢おおひらそう村の南東、平沢ひらそ川上流、国見山の北中腹に位置し、北は樫見かしみ村・小平沢こひらそう村。地名は、当村が山の上にあり、諸方を見渡すことができることに由来するという(加賀志徴)正保郷帳では高四〇石余、田方五反余・畑方二町一反余、日損所との注記がある。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では高四三石・免五ツ二歩で、ほかに山役三四〇目・蝋役三匁の小物成があった(三箇国高物成帳)。寛文年間の家高数四・百姓数六(高免付給人帳)。天保一三年(一八四二)の村御印物成等書上帳によれば、蝋はすでに生産されていなかったが、役銀は御印役として山持が負担。「皇国地誌」によると穀物のほか大根・山菜・楮・渋柿・薪・萓・繭などを産した。

国見村
くにみむら

[現在地名]中村市国見

楠島くすしま村の北西、中筋なかすじ川左岸にあり、北に高森たかもり山の山並を負う山麓の村。宿毛すくも街道が通り、「土佐州郡志」は「中村之西、東西二十町南北五十町、戸凡三十余、其地多砂礫」と記す。小字駄馬だばの国見遺跡からは縄文土器・石鏃・石錘、東中筋小学校遺跡からは古墳時代の土師器が出土した。

天正一八年(一五九〇)の畑庄国見荒川生川村地検帳によれば国見村の検地面積三〇町八反余、屋敷数一七うち居屋敷一一。

国見村
くにみむら

[現在地名]氷見市国見

北は小滝おだき村、東は磯辺いそべ村、南と西は胡桃原くるみはら村、北西は能越国境を境にして能州鹿島かしま井田いだ(現石川県鹿島町)宝達ほうだつ石動山せきどうさん丘陵の南東斜面に位置し、比較的傾斜の緩い斜面を開いて水田と集落が営まれている。小滝村との村境の谷を国見川が南流し、泉谷いずみたに川や中谷なかたに川などの小河川を合流して阿尾あお川となる。地滑り地帯に位置し、古くからその被害を受けたため、水稲耕作のかたわら出稼や副業に従事する人が多かった。正保郷帳では高一〇〇石余、田方二町七反余・畑方四町。

国見村
くにみむら

[現在地名]上郡町くすのき

赤松あかまつ村の北、千種ちくさ川中流左岸に位置する。楠木くすのき村への入口にあたる小村。慶長国絵図に国木村とみえる。江戸時代の領主の変遷は元禄一四年(一七〇一)までは上郡村に、同年以降は小皆坂こかいざか村に同じ。正保郷帳では畠高四四石余。宝暦一二年(一七六二)の村明細帳(庄家文書)によれば、高六八石余・反別四町七反余、免六ツ一厘、家数三五・人数一七〇、牛四、年貢米高瀬舟で赤穂なか(現赤穂市)御蔵へ納入した。

国見村
くにみむら

[現在地名]潟東村国見

大曾根おおぞね村の西にあり、西は漆山うるしやま(現巻町)に接する。寛永一三年(一六三六)の新潟与亥御成ケ本帳(菊屋文書)に前年に三〇石二斗余の年貢米を上納とみえ、同一八年の新潟与巳割付本帳(同文書)には高六七石六斗余、うち一斗余は野手高新田成で引かれ、残り六七石五斗余のうち本途四四石余・免七ツ二分・取米三一石六斗余、新田二二石五斗余・免四ツ・取米九石余、野手一石・免五ツ・取米五斗、ほかに新田見取一石四斗を合せ取米合計四二石六斗余とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報