大学新聞(読み)だいがくしんぶん

日本大百科全書(ニッポニカ) 「大学新聞」の意味・わかりやすい解説

大学新聞
だいがくしんぶん

各大学で主として学生が編集し、発行している新聞。1800年代の初めごろアメリカ東部の大学で始まり、その多くはタウン紙の役割を兼ねるようになって、現在では日刊で発行部数数万に及ぶものも少なくない。

[大蔵雄之助]

大正から第二次世界大戦まで

日本では1917年(大正6)5月創刊の慶応義塾大学の『三田(みた)新聞』(現在休刊中)が最初である。このあと、東京帝国大学(現東京大学)、日本大学、早稲田(わせだ)大学、明治大学、大谷大学、東京商科大学(現一橋大学)、京都帝国大学(現京都大学)と、大正年間に7学生新聞の発刊が続いた。在学生、卒業生、教職員を対象とするため学内関係の記事が掲載されたのは当然だが、それぞれ広報中心、学術論文掲載、文芸重点主義と特色があり、「大正リベラリズム」を反映して自由な雰囲気が強かった。一般紙も大学新聞の誕生に協力し、学生新聞を経験した卒業生の新聞社就職希望を歓迎した。

 昭和に入ってからは、大学新聞も治安維持法、新聞紙法によって発禁処分を受けることがあり、大学当局が事前検閲に踏み切った例もある。1937年(昭和12)7月の日中戦争勃発(ぼっぱつ)以降は徐々に国策、軍事の色が紙面に現れるようになった。さらに4年後の日米開戦に伴い学術色はきわめて薄くなり、やがて新聞用紙難から44年4月の『帝国大学新聞』を最後に、すべて休刊となった。その後、文部省は学生を鼓舞するために全国共通の新聞があるほうが好都合と考え、『帝国大学新聞』の発行母体である「帝国大学新聞社」を「大学新聞社」と改称させ、『京都大学新聞』を関西支社として『大学新聞』の発行を許可し、これが第二次世界大戦後まで存続した。

[大蔵雄之助]

第二次世界大戦後

敗戦後、各大学で新聞再刊の動きが始まったが、新聞用紙の配給が実績主義に基づいていたため『大学新聞』にしか配給されなかった。「大学新聞社」はその利権を手放さず、しかもそれが事実上『東大新聞』になりつつあったことから、その他の大学は全国学生新聞協議会を結成して新聞用紙の公平な配分を要求した。京都大学新聞社は『大学新聞』の割当用紙を使って1946年(昭和21)4月から関西一円の大学向けに新たに『学園新聞』を発行した。そこで孤立した東大も『大学新聞』を廃刊することを決意し、5月に『帝国大学新聞』を復刊する運びとなった。以後学生運動の高まりに連動して、学生数の少ない大学でも、タブロイド判や活版刷りで続々新聞が発行されていった。協議会は49年9月、全日本学生新聞連盟(全学新)に衣替えし、全日本学生自治会総連合(全学連)の下部組織となった。しかしながら、日本共産党の指導をめぐって全学連と全学新の間には当初から若干の齟齬(そご)があった。

 学生新聞の最盛期には、東大や早稲田が週刊で2万部、小さいところでは活版刷りタブロイド判の月刊であったが、全国対象で広告契約を代行したり、世界の学生生活などの情報を配信したりする組織も存在した。その一つはのちにリクルート社になった。

 1960年(昭和35)と70年の2回の安保闘争で学生運動はいくつかのセクトに分裂し、学生新聞もそれらの拠点と化し、一方的な宣伝と凄惨(せいさん)な抗争の報道に紙面をとられ、一般学生の支持を失った。さらに、新聞の購読費は、しばしば自治会費などと一緒に学校当局に徴収してもらっていたので、それを止められて兵糧(ひょうろう)攻めにあい、東大・京大を除く大部分の学生新聞が刊行できなくなった。全学新は70年12月の全国大会を最後に活動を停止し、自然消滅した。これを機会に自ら、あるいは息のかかった学生グループを使って新聞を発行し始めた大学もある。

 現在、UNN(University News Network)関西学生報道連盟が、神戸同志社、立命館、関西(かんせい)学院、大阪、関西、奈良女子、神戸女学院の各大学の新聞を組織し、インターネットでリンクし毎日情報を追加更新するという積極的なサービスを行っている。このネットワークは北海道から九州まで全国に広がろうとしている。しかし、これらの新聞はすべて無料配布であり、広告収入や資金カンパで取材費・用紙代・印刷費などをまかなうことはむずかしい。今日、大学生の関心は多様化しているばかりか、コンピュータで簡単に少部数のグループ紙を出すことも可能であるから、費用のかかる大学新聞が今後学内でかつてのような力をもつことはなく、主流はペーパーレスのホームページに向かうことになるだろう。

[大蔵雄之助]

『『京都大学新聞』縮刷版(1968~70・関西桜井弘済堂)』『『早稲田大学新聞』縮刷版(1982・龍溪書舎)』『『帝国大学新聞』縮刷版(1985・不二出版)』『『東大新聞』縮刷版(1985・不二出版)』『『三田新聞』縮刷版(1987・不二出版)』『河内光治著『戦後帝大新聞の歴史』(1988・不二出版)』『一橋新聞史料刊行委員会編『東京商科大学一橋新聞史料』(1988)』『『一橋新聞』縮刷版(1989・不二出版)』『京大新聞史編集委員会編『権力にアカンベエ!』(1990・草思社)』

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大学事典 「大学新聞」の解説

大学新聞
だいがくしんぶん
university newspaper

大学の教職員や学生を対象に,大学内外のニュースや論評を載せる新聞の総称で,学生新聞とも呼ばれる。大学新聞は,1917年(大正6)5月に慶應義塾大学から創刊された『三田新聞』が最初で,23年には大学新聞の普及促進を目標として,東京帝国大学,早稲田,慶應,日本,明治各大学による「五大学新聞連盟」が結成され,他大学もこれに参加。1925年には軍事教練反対の共同宣言を東京帝大,早稲田大学,立教大学の連名で出し,『早稲田大学新聞』(1922年創刊)が運動の中心的役割を果たした。『東京帝国大学新聞』(1920年創刊)は花森安治,扇谷正造,田所太郎ら,第2次世界大戦後にジャーナリストとして活躍する人たちが編集に当たり,学外の知識層にも広範な読者を獲得した。田所は『日本読書新聞』の編集長として帝大新聞の編集方法を生かした。1962年(昭和37)全国新聞教育研究協議会によって制定された「学校新聞綱領」で,学校新聞は「学校内外における社会的活動を促進」するものとして位置づけられ,大学新聞も教育の一環として制度化された。
著者: 植田康夫

出典 平凡社「大学事典」大学事典について 情報

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