大坂町(読み)おおさかちよう

日本歴史地名大系 「大坂町」の解説

大坂町
おおさかちよう

[現在地名]伏見大阪町おおさかまち

新町しんまち通の西、大手おおて筋の南、阿波橋あわばし通が魚屋うおや町へと曲折する所に位置する町。西は上油掛かみあぶらかけ町と伯耆ほうき町、北は東大手ひがしおおて町と御堂前みどうまえ町、東は新町四丁目と同三丁目、南は上油掛町と新町三丁目に接する複雑な形を示す。

「豊公伏見城ノ図」によれば、町域には北西部に柘植平右衛門屋敷があるのみで、他は町家地となっている。複雑な地形は、「四ツ辻の四ツ当り」という俗称で知られている。新大黒しんだいこく町(現瀬戸物せともの町)方面から御堂前町を通って南行すれば、当町の中心で突当り、魚屋町から西行すれば上油掛町と当町の境界で突当り、本材木もとざいもく町から上油掛町を通って北行すれば魚屋町からの西行路と直角に突当り、阿波橋通を東行すれば上油掛町を通って当町で突当りとなる。

大坂町
おおさかまち

[現在地名]小倉北区米町こめまち一―二丁目・鍛冶町かじまち一―二丁目・京町きようまち一丁目・魚町うおまち一―二丁目・船場町せんばまち

米町二丁目の南にあり、むらさき川右岸から東に延びる町筋。大坂町二丁目の半分と三丁目、四丁目の一部は魚町とり町に属する。町名は元禄(一六八八―一七〇四)頃大坂より馬具師や塗師が来住したことによるという(倉府俗話伝)。江戸後期の町屋敷図では町家は一丁目に二七軒、二丁目に一三軒あり、酒造家の木屋(藤右衛門)や船年寄の布屋(岡五兵衛)があった。五丁目は二〇軒、六丁目は二一軒で、七丁目は北側に永照えいしよう寺の末寺・寺家が並び、南側に町家一二軒。

大坂町
おおさかちよう

[現在地名]水戸市北見きたみ町・おお町二―三丁目・みなみ町二―三丁目・梅香ばいこう一―二丁目

上梅香うわばいこうの西の坂の上から南へ入る袋小路(もとは上梅香)を含み、北へまっすぐ進み、上梅香・藤沢小路ふじさわこうじ裏南うらみなみ町・南町なか町・大町田見小路たみこうじを貫いて大坂(旧称七曲坂)に至る通りに沿った町。

元禄三年(一六九〇)の令で「大坂ヨリ松井半六前マデ」を大坂町と定める(新編常陸国誌)。町の南端近くに藤福とうふく(真言宗、虚空蔵別当)旧跡があり、ここから上梅香を左手にして右へ下る坂を虚空蔵こくうぞう坂という。

大坂町
おおさかまち

[現在地名]八幡町島谷

八幡城の南西に位置し、しん町の通りと直交する通り。寛文年間(一六六一―七三)町絵図では「遠藤大助様御ヤシキ」の西方に描かれる。寛文四年の遠藤常友大坂御加番の人足書(郡上郡史)には新中間として大坂町左次右門・大坂町市蔵がみえる。町名は大坂の銅山師吉松惣兵衛が移り住み町を開いたことに由来し、元禄五年(一六九二)城下町家帳(同書)では家数六(銅山師一・紺屋二・郷商一・大工一・耕作人一)で、町反別一反二三歩のすべてが吉松の所有。

大坂町
おおさかちよう

東山区鞘町通五条下ル二丁目

明治以後、「大阪町」と表記する。鞘町さやまち通に位置。北は鞘町一丁目(旧中町なかまち一町目)。

宝暦一二年(一七六二)刊「京町鑑」鞘屋町通の項に「同(五条下ル)二町目 大坂町」とある。「坊目誌」所引の寛永一〇年(一六三三)本町一町目記録に「大坂町四十二軒役」とあるのが初見。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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