大伴狭手彦(読み)おおとものさでひこ

精選版 日本国語大辞典 「大伴狭手彦」の意味・読み・例文・類語

おおとも‐の‐さでひこ【大伴狭手彦】

大和時代武将。金村の子。宣化天皇二年(五三七新羅任那(みまな)侵攻に際し、渡海して任那、百済(くだら)を救った。松浦佐用姫(まつらさよひめ)との悲恋伝説がある。生没年不詳。

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改訂新版 世界大百科事典 「大伴狭手彦」の意味・わかりやすい解説

大伴狭手彦 (おおとものさでひこ)

6世紀の豪族。生没年不詳。金村の男。《日本書紀》によると,宣化2年,天皇は大連大伴金村に,その子磐(いわ)と狭手彦とを遣わし,新羅の進攻に対して任那を救援すべきことを命じ,磐は筑紫にあって国政をとり,狭手彦は渡海して任那を統治し,百済を救ったとある。また欽明23年には,大将軍として高句麗を討ち,王の宮殿に入って珍宝・美女等を得,天皇と大臣蘇我稲目とに献じたという。このうちことに欽明23年条の記事は,当時の朝鮮の状況からみて疑わしく,一本にいう欽明11年のこととしても,伝承としての誇張が考えられる。なお《肥前国風土記松浦郡の条や,《万葉集》巻五の山上憶良の作歌および序には,狭手彦が渡海前にめとった弟日姫子(佐用姫)について,姫が別離を惜しんで領巾ひれ)を振った褶振峯,狭手彦から贈られた鏡が沈んだ鏡の渡しなどの説話がある。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「大伴狭手彦」の意味・わかりやすい解説

大伴狭手彦
おおとものさてひこ

生没年不詳。6世紀中葉の豪族、武将。大伴金村(かなむら)の子。537年(宣化天皇2)、新羅(しらぎ)に侵略された任那(みまな)を救援するため朝鮮に渡り、任那を鎮め、百済(くだら)を救ったという。また562年(欽明天皇23)には、数万の兵を率いて高句麗(こうくり)を討ち、種々の珍宝を得て、天皇や蘇我稲目(そがのいなめ)に献上している。なお『肥前国風土記(ふどき)』松浦(まつら)郡条や『万葉集』巻5には、狭手彦が朝鮮渡海のときに娶(めと)った弟日姫子(おとひひめこ)(松浦佐用姫(まつらさよひめ))をめぐる説話がみえる。

[鈴木靖民]

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「大伴狭手彦」の解説

大伴狭手彦 おおともの-さてひこ

?-? 6世紀中ごろの豪族。
大伴金村(かなむら)の3男。大伴磐(いわ)の弟。宣化天皇2年(537)新羅(しらぎ)(朝鮮)に攻められた任那(みまな)(朝鮮)をたすけるため,朝鮮半島にわたり,任那をしずめ百済(くだら)(朝鮮)をすくった。欽明(きんめい)天皇23年(562)高句麗(こうくり)(朝鮮)を討ち,おおくの財宝をうばって天皇と蘇我稲目(そがの-いなめ)に献じたといわれる。名は佐提比古ともかく。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「大伴狭手彦」の意味・わかりやすい解説

大伴狭手彦
おおとものさでひこ

古代 (宣化,欽明朝頃) の武将。金村の子。朝鮮に渡り,任那を復興し,高句麗を討ち,種々の財宝を日本に送ったといわれる。松浦佐用姫との悲恋伝説は有名。

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世界大百科事典(旧版)内の大伴狭手彦の言及

【鏡山】より

…山名は,神功皇后が朝鮮出兵の戦勝を祈念して鏡を山頂に埋めたことによると伝える。また任那に渡る大伴狭手彦(おおとものさでひこ)の軍船に向かって,土地の長者の娘松浦佐用姫(まつらさよひめ)がこの山から領巾(ひれ)を振って別離を悲しんだという伝説から,領巾振(ひれふり)山の別名があり,《万葉集》などに歌われている。花コウ岩の上に玄武岩をのせたテーブル状の山で,玄海国定公園の一中心をなす。…

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