外山光輔(読み)とやま・みつすけ

朝日日本歴史人物事典 「外山光輔」の解説

外山光輔

没年:明治4.12.3(1872.1.12)
生年天保14.10.27(1843.12.18)
幕末維新期の公家。正三位勘解由次官外山光親の次男。嘉永5(1852)年元服して昇殿を許され,慶応2(1866)年従四位下となる。維新後の新政府には出仕することなく,京都衰退嘆き,開化の風俗流入を慨嘆した。攘夷主義に立つ建言をするが採用されず,有志と図って再び天皇を京都に迎えんと還幸画策。明治3(1870)年12月の華族禄制改革により外山家は家禄現米254石1斗の京都府華族になるが,その一方で還幸攘夷・政府転覆計画の中心となり,各地の有志を加えてかなり大規模な計画を練っていた。元東山矢田隊の矢田穏清斎父子,久留米藩古松簡二のほか出羽秋田藩,岸和田藩,隠岐,備前,備後,讃岐,京都,東京などの旧尊攘派が結集したが,計画段階で発覚してしまう。4年3月7日,京都での密議中を逮捕され,同年12月3日,愛宕通旭らと共に自刃を命ぜられた。<参考文献>高木俊輔『それからの志士

(高木俊輔)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「外山光輔」の解説

外山光輔 とやま-みつすけ

1843-1872* 幕末-明治時代の公家(くげ)。
天保(てんぽう)14年10月27日生まれ。従四位上。維新後の京都の衰退,新政府の開明政策などに不満をもち,愛宕通旭(おたぎ-みちてる)らと天皇の京都還幸(かんこう),政体変革,攘夷(じょうい)決行を画策。明治4年3月京都で捕らえられ,同年12月3日切腹した。29歳。

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