塩沢村(読み)しおざわむら

日本歴史地名大系 「塩沢村」の解説

塩沢村
しおざわむら

[現在地名]塩沢町塩沢

魚野うおの川左岸の河岸段丘上にある。東はしま新田、北東は竹俣たけまた村・竹俣新田、北は片田かただ村、北西は吉里よしざと村、西から南西にかけて泉城寺せんじようじ村・天野沢あまのさわ村、南は目来田もくらいでん村、南東は上十日町かみとおかまち村。中央を三国街道が縦貫し、両側に民家が並ぶ。西方へ栃窪とちくぼ峠越で十日町(現十日町市)方面に通じる道、魚野川を渡河して清水しみず道へ結ばれる道も分岐する。近世は塩沢組の郷元村。三国街道の宿駅でもあり、下二八町六日町むいかまち(現六日町)、上二里八町せき村への継立場。年欠の上葺萱注文(雲洞庵文書)に「塩沢郷」とみえ、雲洞うんとう庵へ上葺用の萱七千把を供出している。永禄一二年(一五六九)武田信玄に対抗するため、北条氏康より上杉謙信のもとへ派遣された天用院らは、五月一八日、折衝に当たっていた謙信の家臣松本景繁とともに当地に着いた(「進藤家清書状」伊佐早謙氏所蔵文書など)。同年一一月、越中に出陣中の謙信は信玄の関東出陣を聞き、同盟に基づき直接関東へ向かうため、同月一四日深雪をついて当地に着陣した(「上杉輝虎(謙信)書状」安得虎子)。天正九年(一五八一)二月二〇日、御館の乱における戦功を賞して、上杉景勝深沢利重に対して「五拾貫文 塩沢郷之内」ほかを給与している(「同宛行状」上杉年譜)

慶長三年(一五九八)上杉景勝の会津移封後は坂戸さかど(現六日町)城主堀直寄領となり、このとき当地の井口弥右衛門家が「塩沢町」の肝煎を命じられた(年欠「堀直寄書状」井口家文書)

塩沢村
しおざわむら

[現在地名]二本松市塩沢町・伊佐沼町いさぬままち上原うわはらおもて根坂ねざか古家こや幸町さいわいちよう笹屋ささや沢松倉さわまつくら末広町すえひろちよう坦子内たんごうち大根畑だいこんばたけ鉄扇町てつせんちようなか二又ふたまた不動平ふどうだいら細野ほその三原町みはらちよう宮沢みやざわ休石やすみいし休石原やすみいしはら湯川町ゆがわまち

阿武隈川の西岸に位置する。幕府へ提出した天保郷帳では一村だが、領内では表塩沢村・裏塩沢村の二村に分れていた。東西に長い村で、東は油井ゆい(現安達町)、南は二本松城下上成田かみなりた村・永田ながた村・原瀬はらせ村、北は渋川しぶかわ(現安達町)および信夫しのぶ水原みずはら(現福島市)

塩沢村
しおざわむら

[現在地名]小山市塩沢・外城とじよう

おもい川西岸に位置し、東岸に飛地がある。西はいしうえ村・間中まなか村、北は萩島はぎしま村。永仁五年(一二九七)六月、時宗二祖他阿真教が小山滞在中、塩沢入道に返書に添えて和歌を与えた(他阿上人和歌集)。この塩沢入道は当地を本貫とする在地武士であろう。天文五年(一五三六)と推定される一一月二七日の小山高朝伊勢役銭算用状写(佐八文書)に小山領下郷分「しほさハ」がみえ、伊勢役銭七貫一〇〇文を負担している。同二三年一二月二四日には古河公方足利義氏から家臣野田左衛門大夫に塩沢郷が宛行われた(「足利義氏充行状」野田家文書)

慶長年間(一五九六―一六一五)小山藩領、元和五年(一六一九)下総古河藩領となり、寛文四年(一六六四)検地帳(吉光寺秀一文書)が残る。

塩沢村
しおざわむら

[現在地名]黒川村塩沢

高坪たかつぼ山の支峰蔵王ざおう山から流れるからす川が北流し、北は近江新おうみしん村、南は黒川町・たて村に接する。村名は字しおいりに岩塩が出る所があったことに由来するともいわれる。元徳三年(一三三一)六月五日の海老名忠顕和与状(三浦和田氏文書)に「塩沢村」とみえ、忠顕と和田(黒川)茂実との奥山おくやま庄内四ヵ村の堺相論で和与が行われた際、山上やまがみ江波多えばた両村の東堺は塩谷しおだに・塩沢両村を限ると決められた。同年一二月二三日には茂実に押領されている塩沢村、塩谷村の田畠山野の得分物を和田茂長女子平氏に返すようにとの関東下知状(同文書)が出されている。

塩沢村
しおざわむら

[現在地名]南牧村大塩沢おおしおざわ

南牧川から北に分岐した谷間に位置し、東は小沢おざわ村、南は千原ちはら村、西は六車むくるま村と接する。近世はおおむね幕府領(天保一五年以後は旗本小笠原領との二給)。寛文郷帳には元禄郷帳で枝村とする黒滝くろだき村・小塩沢こしおざわ村・大久保おおくぼ村・高浦たかうら村とともに記され、五ヵ村の合計高一六二石余はすべて畑方、高浦村には御巣鷹山を記す。元禄二年(一六八九)の村明細帳(市川文書)によると総反別七一町三反余、耕地はすべて畑方で上畑三町三反余・中畑四町五反余・下畑九町三反余・下々畑五町七反余・山畑一三町余・楮畑一〇町九反余・桑畑四町五反余などで新開はみられず、同年の分米帳(同文書)には「右ハ当村分米仕上ケ書面之通リ少相違無御座候、勿論高外新開田畑一畝一歩無御座候」とある。

塩沢村
しおざわむら

[現在地名]茅野市米沢よねざわ 塩沢

北大塩きたおおしお村の東、東南に朝倉あさくら(一〇八六・七メートル)がそびえ、南にかみ川が西流し、村内を東西に大門道だいもんみちが通じている。

天正一八年(一五九〇)、日根野高吉による検地の際の塩沢検地野帳(塩沢共有)が村名の初見である。

「諏訪郡諸村旧蹟年代記」に「往古塩沢淡路守居同将監居伊藤十左衛門又朝倉城山え天保九年三十三番立ル 深谷山塩沢寺(功徳寺末也)湯殿派愛宕山清水院」とある。朝倉山は別名城山、塩沢城跡とよばれ、本郭・二の郭・空堀・曲輪跡が残る。南麓の大門道よりの比高約二〇〇メートルで、南北山浦やまうら一帯を眺望でき、前方両側は急峻で、後方は霧ヶ峰きりがみね山系に続き、小県ちいさがた・佐久方面へ通ずる大門道の要路を扼する上原うえはら城の支城の役割を担っていた。

塩沢村
しおざわむら

[現在地名]新城市日吉ひよし

鳥原とりはら村の東、北は豊川左岸に沿い、南は船着ふなつき山北西麓にあたり、村の東部は山が豊川に迫って耕地は少なく、西部は鳥原村に接して耕地が広がる。近世初頭は幕府領であったが、寛文八年(一六六八)から安部氏領、元禄一四年(一七〇一)安部小十郎家の分知に際して当村内の三三八石余は小十郎家領、残り六四石余は安部本家領と分割された。宝永四年(一七〇七)小十郎家領は万次郎家領に移され幕末に至る。

塩沢村
しおざわむら

[現在地名]石川町塩沢

阿武隈高地の西縁に位置し、南は内槙うちまき村。西の中野なかの村からの御斎所ごさいしよ街道は、村内を抜け内槙村に至る。字たけうちに永仁六年(一二九八)一一月日銘をもつ高さ二・三メートルの板碑がある。戦国末期に、大寺おおでら(現玉川村)城主大寺清光の家臣塩沢丹後守高平が居住していたという(須釜村史)。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録では高二四七石余。寛永四年(一六二七)以降白河藩領、その後の領主変遷は高田たかだ町と同じ。白河古領村郷高帳による高六五一石余。旧高旧領取調帳では高六五一石余。

塩沢村
しおざわむら

[現在地名]只見町塩沢

寄岩よりいわ村の北東、只見川が東に流れを変える左岸にあり、塩沢川の出口にあたる。東は只子ただこ沢を境に大沼郡滝沢たきざわ(現金山町)。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録に「塩沢 七十六石七斗六升」とある。慶長二年(一五九七)の藤三郎倉入在々高物成帳(福島県史)でも同高で免四ツ二分。大塩組に属する。文化一五年(一八一八)の南山御蔵入領組村高帳では一三九石余。化政期の家数五三(新編会津風土記)。明治四年(一八七一)の家数四六・人数二二二(人員録)。当地では古くから塩の生産が盛んで、「会津風土記」に「東有川其滸岩穴潮出焉、里民煮之」とある。「新編会津風土記」によると、塩沢川の東岸岩穴の間に塩井があり、塩焼小屋が六軒あった。

塩沢村
しおざわむら

[現在地名]万場町塩沢

北境は西御荷鉾にしみかぼ(一二八六・二メートル)から連なる一二〇〇メートル以上の峰が続き、北西境の赤久縄あかぐな(一五二二・三メートル)から流出する神流かんな川支流の塩沢川が東南流する。東は万場村、北は多胡たご上日野かみひの(現藤岡市)と接する。近世はおおむね幕府領。寛文郷帳の高五四石余はすべて畑方。元禄七年(一六九四)検地が行われ、高一四二石余・反別六六町九反九畝余で耕地はすべて畑方、紙舟役永五四八文・漆四七七目のほかに絹売出し・綿売出しなどの役銭を納める(「山中領村鏡帳」黒沢文書)。文政四年(一八二一)船子ふなこ村とともに赤久縄山御林の御用炭焼五万俵を、一年一万俵の五年季で請負っている(「炭焼出方請負証文」茂木文書)

塩沢村
しおざわむら

[現在地名]立科町塩沢

茂田井もたい芦田あした細谷ほそや藤沢ふじさわ諸村に囲まれた新田地帯で、慶長一五年(一六一〇)の「田野口組・畑村組・長右衛門組・望月組貫目御帳」(竹内文書)には、望月組のうち「四拾貫文 塩沢村」とみえる。村内に町史跡に指定されている「塩ノ井」がある。村名は塩からい水に由来するという(長野県町村誌)

元和八年(一六二二)九一石余(「佐久郡高書上帳」柳沢文書)に過ぎない村高は、寛文一〇年(一六七〇)には長三郎ちようざぶろう新田(塩沢新田)分を除いても三一八石余(「信州小諸領高并諸浮役帳」北佐久郡志)に急増しており、新田村同様塩沢堰開削後急速に開けた。またこの頃塩沢本郷・塩沢新田細谷新田を塩沢三ヵ村ともいった(「塩沢三ヵ村新田百姓等検地につき新田大将長三郎分付田地放し請証文」六川長三郎氏蔵)

塩沢村
しおざわむら

[現在地名]大間々町塩沢

下田しもだ(塩沢川)の上流左右両岸に位置し、勢多せた郡に属する。南は山田郡塩原しおばら高松たかまつ、北は枝村の塩沢新田。近世後期、銅山あかがね街道の裏道が村の中央を南北に通った。天正一二年(一五八四)北条氏から阿久沢彦二郎に与えられた地に「仁田山之内 しほ沢」がある(同年五月二八日「北条家朱印状」阿久沢文書)。寛文郷帳では高九三石余で畑方のみ、館林藩領。天和二年(一六八二)分郷配当帳では高一一四石余、旗本岡部領。旧高旧領取調帳には塩沢新田がみえず、近世末には当村に含まれたと思われる。

塩沢村
しおざわむら

[現在地名]南部町塩沢

南部六郷の一つで、北は一〇町を隔てて南部村(甲斐国志)。年未詳一二月一三日の秋山半九郎書状(朝夷一郎家文書)では、南部宿の伝馬につき「大和塩沢」を加えて勤めるよう命じられている。慶長古高帳では高八一石余、幕府領。寛文一〇年(一六七〇)の検地帳(県立図書館蔵)では上田三町三反余・中田一町三反余・下田九反余・下々田八反余・山田八畝歩で田地計六町五反余、上畑二町余・中畑一町六反余・下畑三町八反余・下々畑五町二反余・山畑三町四反余・山下畑三町二反余・屋敷四反余で畑屋敷計二〇町余、総反別二六町五反余・高一三五石余、屋敷数四三。その後再検地が実施され、延宝五年(一六七七)の検地帳(同館蔵)では山畑などが苅立畑二町四反余に修正。

塩沢村
しおざわむら

[現在地名]蔵王町塩沢

曲竹まがたけ村の北東にある小集落で、北から西にかけては円田えんだ村。円田村永野ながの宿より平沢ひらさわ村に至る道が通る。東は薄木うすぎ村・沼田ぬまた(現柴田郡村田町)。文禄三年(一五九四)の蒲生氏高目録帳(内閣文庫蔵)に「塩沢 七百九十石九升 源左」とある。これより先の晴宗公采地下賜録に「塩さハ」とみえるが、「柴たのせう」のうちで、当地かどうかは未詳。正保郷帳に水損と注され、田三〇貫一八八文・畑九貫二七二文。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報