大蔵流狂言方。淀藩士剣持氏の息として京都に生まれたが,2歳のとき,母が2世茂山(しげやま)忠三郎良豊と再婚したので,良豊の長男として入籍。養父の薫陶を受け,忠三郎家の分家として一家を成す。1941年,次男吉次郎が大蔵宗家へ入り24世家元大蔵弥太郎を名のったので,以後数年は家元後見役を務めた。強靱な基礎の上に独自のくふうと解釈を加味し,関西風の庶民的・写実的芸風を完成,晩年は技量を広く認められ,狂言界の長老として重きをなした。63年11月,シテ方金春(こんぱる)流家元,金春信高から善竹の姓を贈られ,以後一家をあげて茂山姓から善竹姓に改めた。53年度芸術院賞受賞,64年3月重要無形文化財保持者各個指定(人間国宝)の認定を受ける。嗣子善竹忠一郎をはじめ大蔵弥太郎,善竹玄三郎・幸四郎・圭五郎の5男がみな家芸を継承している。
執筆者:羽田 昶
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大蔵流狂言師。本名茂山久治(しげやまきゅうじ)。2歳のとき、母が狂言師2世茂山忠三郎良豊(よしとよ)と再婚し、入籍。1888年(明治21)『靭猿(うつぼざる)』の猿で初舞台。忠三郎家の分家としておもに阪神地区で活動し、骨太の写実的な演技で独自の境地を開き、『鎌腹(かまばら)』『右近左近(おこさこ)』『茫々頭(ぼうぼうがしら)』などの曲を得意とした。芸風は、もっぱら弥五郎の個性と創意工夫により醸成されたもので、江戸式楽の名残(なごり)をとどめない世話物的な人間くさい狂言で高く評価された。晩年、芸術院賞、朝日文化賞、重要無形文化財各個指定(人間国宝)などを次々と受け、3世山本東次郎(とうじろう)、6世野村万蔵(まんぞう)らとともに狂言ブームの一翼を担った。次男吉次郎が大蔵家へ入り、24世宗家大蔵弥太郎となったほか、嗣子(しし)忠一郎、三男玄三郎、四男幸四郎、五男圭五郎(けいごろう)のすべてが狂言師として活躍。1963年(昭和38)弥五郎が金春(こんぱる)宗家から善竹姓を贈られたのを機に、弥五郎家はそれまでの茂山から善竹に改姓した。
[油谷光雄]
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