和泉郡(読み)いずみぐん

日本歴史地名大系 「和泉郡」の解説

和泉郡
いずみぐん

和泉国のほぼ中央部に位置した郡。「和名抄」にみえるが諸本ともに訓を欠く。国名と同じ「いずみ」であるためであろう。北は大鳥郡、東は大鳥郡および河内国錦部にしごり郡、南は紀伊国伊都郡・那賀郡、南西は日根郡、北西は海。郡域は、現在では和泉市・泉大津市・泉北郡忠岡ただおか町・岸和田市の全域と貝塚市の過半にあたる。ただしこれは古代の郡域で、後述のように中世には南西半部が南郡として分離したため、それ以降の当郡は現和泉市・泉大津市・忠岡町の全域と岸和田市の一部に狭まった。なお郡名は泉郡と略記されることが多く、近世の用例は郷帳類をはじめほとんど泉郡である。近代の公的表記は和泉郡。「和名抄」によれば、当郡は信太しのだ上泉かみついずみ下泉しもついずみ軽部かるべ坂本さかもと池田いけだ山直やまたえ八木やぎ掃守かにもり木島きのしまの一〇郷からなり、令制の区分では中郡にあたる。一三世紀以降には山直郷(現岸和田市)以下の四郷を南郡と称するようになる。当郡は和泉地方の中心で、海岸部の平野を主体とした地域は原始以来の先進地帯であり、律令制下の和泉国府も現和泉市府中ふちゆう地区(上泉郷の地)に置かれている。

郡内には原始以来の諸遺跡が多い。池上曾根いけがみそね遺跡(現和泉市・泉大津市)は弥生時代の全期間とくに中期を中心とした大遺跡で、北方の旧大鳥郡の四ッ池よついけ遺跡(現堺市)とともにこの時期の和泉地方の母村的位置を占め、各種の遺構や遺物が出土している。弥生時代後期の大規模な高地性集落としては惣の池そうのいけ観音寺山かんのんじやまの両遺跡(現和泉市)がある。百舌鳥もず古墳群(現堺市)の築造される以前の前期の古墳として、和泉地方最大の規模をもつ墳丘長二〇〇メートルの前方後円墳である摩湯山まゆやま古墳(現岸和田市)や、魏の景初三年(二三九)銘をもつ鏡が出土した黄金塚こがねづか古墳(現和泉市)があり、これに続く首長墓としては丸笠山まるがさやま古墳(現同上)久米田くめだ古墳群(現岸和田市)があるが、全体として規模の縮小が目立つ。信太郷(現和泉市)内の信太山しのだやま丘陵や池田郷(現同上)内の山間部は、大鳥郡南部を中心とした広義の「すえ邑」の南端部にあたり、須恵器の窯跡が多く、またこれらの地域には信太千塚しのだせんづか三林みばやし両古墳群などの群集墳も営まれている。

〔古代〕

郡内の条里は、海岸平野部では海岸線にほぼ直交する北四八度西の方位をもち、牛滝うしたき川流域では北二二度西、近木こぎ川上流の清児せちご名越なごせ(現貝塚市)付近では北二〇度西の方位をもち、河川の走向とほぼ一致している。里名はいずれも固有名詞を称し、坪並は北西端を一坪として東に連続式に数えて南西端を三六坪とする。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報