向村(読み)むこうむら

日本歴史地名大系 「向村」の解説

向村
むこうむら

[現在地名]甲府市向町、東八代郡石和いさわ広瀬ひろせ四日市場よつかいちば

和戸わど村の南にあり、北東から南西に笛吹川(現平等川)が流れる。対岸は八代郡広瀬村唐柏からかしわ(現石和町)。南西流してきた平等びようどう川は北境で笛吹川に合流する。「甲斐国志」によれば、古くは唐柏村とは一村で周辺の村とともに石和御厨に属していたが、笛吹川の流路が変わって分断されたという。村名は石和郷に対して川の向うの意ともいう。慶長六年(一六〇一)検地帳(県立図書館蔵)では向村とみえ、田が三八町七反余・畑は三町二反余、桑も作った。ほかに永荒地三町一反余、屋敷六反余。慶長古高帳では高六八三石余。貞享二年(一六八五)の検地帳(県立図書館蔵)では高六一〇石余、反別は田三五町余・畑六町余、引続き桑もみえる。

向村
むかいむら

[現在地名]和歌山市向

名草なくさ郡に属し、延時のぶとき村の北方に位置する。北と西は土入どうにゆう川の源流ふる川を隔ててなか村、中野なかの村に対する。中村との境に橋があり、これにちなんで橋向はしむかい村ともいった。古代には紀ノ川の河中にあった低湿地で、古代末期以後の開発になり、中世には薗部そのべ庄に属したと推測される。

慶長検地高目録では高三九三石余。村高は天保郷帳でもほとんど変化はない。平坦地で水利もよく、主穀の栽培に適していたため、江戸初期に開発は頂点に達していたものであろう。しかし江戸中期以降、綿を中心とする商品作物の生産も行われた。貴志組に属した。明治三年(一八七〇)の向村人口米麦見積帳(古屋地区蔵)によれば、米二八八石、麦二一六石。

向村
むかいむら

[現在地名]珠洲市若山町向わかやままちむかい若山町宇都山わかやままちうつやま

火宮ひみや村の南西、若山川右岸にあり、東は中田なかだ村。近世初期、真依という有力百姓がいたが、のち隣接地に移住した定祐が台頭した。正保郷帳に村名がみえ、高二四〇石余、田一四町八反余・畑一町一反余、新開高四二石余(免三ツ五厘)。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の草高二九〇石、免五ツ、小物成は山役一三〇匁・漆役二匁、敷借本米・利足は二二石であった(三箇国高物成帳)

向村
むかいむら

[現在地名]蒲刈町向

上蒲刈かみかまがり島の西端、三之瀬さんのせ水道を挟んで下蒲刈島(現下蒲刈町)の三之瀬に対し、東の急峻な山(四二〇・八メートル)のため、上蒲刈島東部とは分断される。近世、行政的には蒲刈島の中に含まれたが、上蒲刈島の田戸たど宮盛みやざかり大浦おおうら、下蒲刈島の三之瀬・下島しもじまとともに各々庄屋が置かれた。宝永二年(一七〇五)の役家数は二四(宝永二年年貢割付雛形覚「芸南蒲刈島誌」所収)。蒲刈島の特産生石灰は当村の坪屋村田直蔵が始めたと伝える。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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