蒲刈島(読み)かまがりじま

日本歴史地名大系 「蒲刈島」の解説

蒲刈島
かまがりじま

芸予諸島西端に位置する上蒲刈かみかまがり(現蒲刈町)下蒲刈島(現下蒲刈町)は、近世には蒲刈島と総称され、「芸藩通志」には「上下二島あり 上は周六里四町、下は三里三十四町」と記される。この上下両島は嘉応二年(一一七〇)四月日付の伝灯法師雲暁解(興福寺本信円筆因明四相違裏文書)にみえる「安芸国日高御庄」にあたり、「芸藩通志」も「蒲刈島 此島を日高庄といへり」と記す。日高ひだか庄は奈良興福寺領と推定され、雲暁は日高庄に私領田畠を有し、過去三年間に米一〇〇余石、杉榑三千寸などの収得があったようである。以後日高庄に関する記録はないが、蒲刈島には春日神社が多く鎮座しており(「芸藩通志」では四社)、興福寺との関係がうかがえる。

正平六年(一三五一)九月二八日付常陸親王令旨(毛利家文書)に、多賀谷孫次郎支配の日高下島を三戸頼顕に預けたとある。この日高下島は下蒲刈島をさし、上蒲刈島は日高上島とよんだものと思われる。享徳元年(一四五二)閏八月二四日付の平賀弘宗小早川盛景等注進状写(小早川家文書)によれば、伊予国河野氏の重臣重見氏が日高城麓にいたことが知られるが、この城が上下どちらの島にあったかは不明。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報