吉田新田村(読み)よしだしんでんむら

日本歴史地名大系 「吉田新田村」の解説

吉田新田村
よしだしんでんむら

[現在地名]中区吉田よしだ町・福富ふくとみ町〈仲通なかどおり西通にしどおり東通ひがしどおり〉・伊勢佐木いせざき町一―七丁目・末広すえひろ町一―三丁目・羽衣はごろも町一―三丁目・蓬莱ほうらい町一―三丁目・万代ばんだい町一―三丁目・不老ふろう町一―三丁目・おきな町一―四丁目・おうぎ町一―四丁目・寿ことぶき町一―四丁目・松影まつかげ町一―四丁目・吉浜よしはま町・長者ちようじや町一―九丁目・末吉すえよし町一―四丁目・若葉わかば町一―三丁目・あけぼの町一―五丁目弥生やよい町一―五丁目・山吹やまぶき町・富士見ふじみ町・山田やまだ町・千歳ちとせ町・三吉みよし町、南区永楽えいらく町一―二丁目・万世まんせい町一―二丁目・真金まがね町一―二丁目・高根たかね町一―四丁目・白妙しろたえ町一―五丁目・浦舟うらふね町一―五丁目・日枝ひえ町一―五丁目・南吉田みなみよしだ町一―五丁目・山王さんのう町一―五丁目・吉野よしの町一―五丁目・新川しんかわ町一―五丁目・二葉ふたば町一―四丁目・高砂たかさご町一―三丁目

北は戸部とべ村、西は太田おおた村、南は蒔田まいた村・堀之内ほりのうち(現南区)なか村、南から東は横浜村に囲まれた釣鐘状の入海にできた新田村。西北境を大岡おおか川が東北に流れ、南境を分流中村なかむら川が東流する。東は入海で、のち横浜新田・太田屋おおたや新田となり、境を派大岡はおおか川が流れる。

明暦二年(一六五六)江戸の材木商吉田勘兵衛が幕府の許可をえて新田開発に着手したが、翌年の豪雨で潮除堤が破壊されて失敗した。

吉田新田村
よしだしんでんむら

[現在地名]南区浦舟うらふね町一―五丁目・永楽えいらく町一―二丁目・山王さんのう町一―五丁目・白妙しろたえ町一―五丁目・万世まんせい町一―二丁目・新川しんかわ町一―五丁目・高砂たかさご町一―三丁目・高根たかね町一―四丁目・日枝ひえ町一―五丁目・二葉ふたば町一―四丁目・真金まがね町一―二丁目・南吉田みなみよしだ町一―五丁目・吉野よしの町一―五丁目、中区あけぼの町一―五丁目・伊勢佐木いせざき町一―七丁目・おうぎ町一―四丁目・おきな町一―四丁目・寿ことぶき町一―四丁目・末広すえひろ町一―三丁目・末吉すえよし町一―四丁目・千歳ちとせ町・長者ちようじや町一―九丁目・羽衣はごろも町一―三丁目・福富ふくとみ町〈仲通なかどおり西通にしどおり東通ひがしどおり〉・富士見ふじみ町・不老ふろう町一―三丁目・蓬莱ほうらい町一―三丁目・松影まつかげ町一―四丁目・万代ばんだい町一―三丁目・三吉みよし町・山田やまだ町・山吹やまぶき町・弥生やよい町一―五丁目・吉田町吉浜よしはま町・若葉わかば町一―三丁目

昭和一八年(一九四三)一二月一日、南区が中区より分離新設されるに伴い、旧吉田新田地区が両区に分れることになった。

吉田新田村
よしだしんでんむら

[現在地名]酒田市吉田新田・下安町しもやすちよう上安町かみやすちよう

南吉田村の西にあり、灌漑用水路井皿いざら溝が南流する。万治二年(一六五九)同村の伊藤久三郎が開発したため(「家伝」伊藤文書)、同村の枝郷として扱われた。貞享年間(一六八四―八八)の村組付(飽海郡誌)によれば高三二一石余、家数一六。同四年には草刈地の鷹尾たかお山山札を二二枚所有し、米一俵四升を納めた(「鷹尾山新古留帳」相馬文書)。享和三年(一八〇三)の家数二一・人数一二三(「村数家数人高控帳」斎藤文書)。酒田町本間家の小作地が多く、寛延三年(一七五〇)取入俵田渡米一〇三俵、明和二年(一七六五)一五三俵、安永五年(一七七六)五四俵・同八年一一俵・同九年三八俵、天明元年(一七八一)六一俵、寛政年間(一七八九―一八〇一)は三〇―四〇俵前後であったが、享和三年一〇九俵、天保一〇年(一八三九)には六〇俵、嘉永二年(一八四九)一二俵あった(明治二年「川北俵田明細鑑」本間文書)

吉田新田村
よしだしんでんむら

[現在地名]西会津町奥川元島おくがわもとしま

向原むかいはら村の西、奥川右岸にあり、北は井岡いおか村。「新編会津風土記」では正保二年(一六四五)ざわ村住人宮城八左衛門によって開かれた地とあるが、明治二〇年(一八八七)にのちの初代奥川村長矢部豊多が記した理左衛門事蹟書上(矢部家文書)によると、真ヶ沢村矢部理左衛門が向原・井岡両村の間に広がる荒蕪地のうち一町余を正保三年から慶安元年(一六四八)にかけて開拓したことが村の草創という。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報