古坊中(読み)ふるぼうちゆう

日本歴史地名大系 「古坊中」の解説

古坊中
ふるぼうちゆう

[現在地名]阿蘇町黒川 古坊中、白水村中松 古坊中

阿蘇山なか岳の噴火口の西側約一キロの原野一帯に広がる古代から中世にかけての天台系密教寺坊の遺跡。阿蘇山信仰の一中心であった。阿蘇山の開基について、元禄八年(一六九五)に書かれた阿蘇山旧記抜書(西巌殿寺文書)は、神亀三年(七二六)最栄読師が来朝して阿蘇山に登り、阿蘇明神に対面し、その本地仏として十一面観音をつくり、仏閣に祀った。この旧室を西巌殿さいがんでん寺と称し、本堂にあたるという。慶応四年(一八六八)神仏分離令に伴う調査の折、西巌殿寺大衆等として提出した肥後国阿蘇山西巌殿寺由来略記(「古坊中」所収)には、神亀三年天竺毘舎利国貴明王の太子最栄読師が阿蘇山に登り、「宝池ヲ拝上シ法華経読経ノ時山中震動シ瑞光天ニ輝キ垂迹九頭龍ノ頂ニ十一面観音薩出現御座ス」とより詳細に記してある。「国誌」は同様な最栄の紹介に続けて、阿蘇明神は和修吉龍王で、天竺摩訶陀国から飛来したという説と、青龍神であるとする二説を記している。阿蘇明神を龍神とみなす説が近世初期にかなり流布していたらしく、井沢蟠龍は元禄三年に著した「阿蘇宮記」で泰澄伝説と併せて龍神説にふれ、龍は健磐龍命の名に付会するもので、「神武の皇孫なり。龍神にあらず」と強く否定している。神亀三年の天竺の最栄読師開基説に対して、元禄から宝永(一七〇四―一一)にかけて大宮司職にあった阿蘇友隆は阿蘇宮由来略(「国誌」所収)を著し、天養元年(一一四四)比叡山の慈恵の徒最栄が、大宮司友孝に請うて阿蘇山に住み、十一面観音を彫り、法華経を読誦したので最栄読師とよんだと、まったく異なる説を掲げる。この説は慈恵は一〇世紀の人であり、年代的に矛盾がみられる。

古坊中の滅亡の具体的な原因を明らかにする資料はないが、おそらく火山活動の活発化による山上堂宇の荒廃と、天正一五年(一五八七)豊臣秀吉の九州出兵が惹起した政治的混乱によって衰退したとみられる。慶長四年(一五九九)加藤清正は山麓の黒川くろかわ村に坊舎を復興することを命じたが、この復興された坊を通常麓坊中といい、山頂の古坊中と区別する。古坊中一帯には、昭和三〇年代頃まで坊の跡地とみられる方形の区画された平坦地が多数存した。昭和五年(一九三〇)の阿蘇山古坊中地形図によると、九〇余ヵ所の方形区画とその間を通る道が記される。一帯からは中世の雑器の破片のほか、仏具とみられる銅や置香炉・硯などが採集されている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の古坊中の言及

【阿蘇山】より

…御池の神である健磐竜(たけいわたつ)命を主祭神とする阿蘇神社には3月に火振神事があり,また末社の霜神社では火焚の神事が8月19日から10月16日までの約60日間行われるなど,火の山にふさわしい行事を伝えている。阿蘇山には阿蘇神社が一の宮におかれたほか,山上古坊中(ふるぼうちゆう)には西巌殿寺を中心として37坊の寺院群が存在し,大宮司職で古代国造の系譜を負う阿蘇氏の保護と規制のもとに一山が運営されてきた。しかし,天正年間(1573‐92)に大友・島津両氏の確執により山上古坊中は離散し,改めて1600年(慶長5)加藤清正によって山麓部に再興された。…

【阿蘇神社】より

…この社殿を下宮と称し,《延喜式》の肥後国式内社の4座のうち,大神1座,小神2座までが阿蘇社の祭神で占められている。従来の火口は上宮とされて,後には天台系の最栄読師(とくし)にはじまる僧侶たちの寺坊が発生し(古坊中(ふるぼうちゆう)),祈禱・練行が行われるようになった。社殿は宮地四面8丁四方の神域の中に,1335年(建武2)の絵図では,左の健磐竜命の一宮と,右の阿蘇比咩(あそひめ)神の二宮の両本殿を中心に,三・五・九神合祀の社殿が一宮の左方に,四・六・八・十神合祀の社殿が二宮の右方に並び,十一神と十二神はその両端にカギ形に向き合って正面楼門に続く回廊とつながっている。…

※「古坊中」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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