南畑村(読み)みなみはたむら

日本歴史地名大系 「南畑村」の解説

南畑村
みなみはたむら

[現在地名]宝塚市切畑きりはたいずみおか清荒神きよしこうじん三―五丁目・中山台なかやまだい一―二丁目・花屋敷荘園はなやしきそうえん一―四丁目・花屋敷はなやしきつつじガおか花屋敷松はなやしきまつおか雲雀丘ひばりがおか一―四丁目・雲雀丘山手ひばりがおかやまて一―二丁目・平井ひらい一丁目・同四丁目・平井山荘ひらいさんそう山本台やまもとだい一―三丁目・山本東やまもとひがし一丁目・長尾台ながおだい一―二丁目・中山荘園なかやまそうえん・ふじガおか売布めふきよしガおか売布めふ四丁目・売布めふおか中山桜台なかやまさくらだい一―七丁目・売布山手町めふやまてちよう山手台西やまてだいにし一―二丁目・山手台東やまてだいひがし一―二丁目

中山寺なかやまでら村の北西に位置し古宝ふるほう山の東側盆地に集落がある。北畑村とともに古くは切畑村と称した。応安元年(一三六八)四月八日の多田ただ(現川西市)の金堂供養棟別銭注文(多田神社文書)に「切畑村」四六家とあり、一家当り一〇文余の棟別銭が課せられている。永和元年(一三七五)には同院内法花堂・常行堂・地蔵堂の造営のため、三一家に一家当り一〇文弱の棟別銭が課せられた(七月二五日「諸堂造営料棟別銭郷村注文」同文書)

川辺かわべ郡に属し、慶長国絵図では北畑村と合せて畑村とみえ、元和三年(一六一七)の摂津一国御改帳では「北南切畑村」と記載。正保郷帳では村切され南畑となるが、切畑村名は南北切畑村の総称としてその後も用いられ、当村は南切畑村とも称した。

南畑村
みなみはたむら

[現在地名]日出町南畑、山香やまが町南畑、宇佐郡安心院あじむ町南畑、別府市南畑

辻間つじま村・小浦こうら村の西、十文字原じゆうもんじばる高原の北部と鹿鳴越かなごえ山塊の西部が接触する一帯の高原と、周防灘に注ぐ駅館やつかん川の支流津房つぶさ川と別府湾に注ぐ八坂やさか川・さん川の上流の山間地帯を村域とする。中世には山香郷に属し、永正四年(一五〇七)の志手泰久田畠坪付并米定銭夫銭等注文案(志手文書)や永正年間の山香郷一揆拘分土貢納所銭注文案(志手トラエ文書)にみえる山香郷東西一揆衆の給分が当地にあった。すなわち西方分の小田村・大路ヶ平(大内ヶ平)などは現安心院町、西方分の目苅めがり、東方分の薄尾すすきおなどは日出町南畑、東方分の上河内かみこうちなどは山香町南畑に比定される。

南畑村
みなみはたむら

[現在地名]雫石町南畑

東に女助めすけ(六〇九・五メートル)、西に男助おすけ(七五八・四メートル)がそびえ、三方を山に囲まれ、南畑川が北流してみなみ川に合流する。東の安庭あにわ村から沢内さわうち街道がほぼ中央を通り、南端山伏やまぶし峠を越えて川舟かわふね(現和賀郡沢内村)に入る。寛文一一年(一六七一)の繋村肝入館市家留書(瀬川文書)では高二九〇石余。天和二年(一六八二)の惣御代官所中高村付では蔵入高一七七石余で、七ヵ年平均の免は二ツ七厘。南畑新田があり、蔵入高一六石余、七ヵ年平均の免は四分二厘三毛。元禄十郡郷帳では阿(安)庭村に入るとある。宝暦一一年(一七六一)の雫石通高改書上帳(高橋文書)では高二六九石余で、蔵分一九一石余のうち南畑御山守の御免地高三七石余、給人二名。

南畑村
みなみばたむら

[現在地名]鈴鹿市西庄内にししようない

はら村の北西に位置する山間の村。北東に北畑きたばた村、その西に上野かみの村がある。近世、北畑村・上野村とともに畑三郷といい、文禄検地帳を転記したと思われる伊勢国中御検地高帳には「畑三郷」八二七・二七石とある。江戸時代はおおむね亀山藩領であるが、元和元年(一六一五)から寛永一三年(一六三六)までの二〇年間は、津藩領であった。慶安郷帳(明大刑博蔵)に、高四三一・〇八石、うち三六五石余田方、六六石余畑方とある。「亀山御領分雑記」によれば延宝四年(一六七六)の家数六三(うち本役三八・無役二五)、人数三六三、馬二一、牛三二、享保一五年(一七三〇)の家数一一六、人数五五四、馬一八、牛三六とあり、家数・人数の増加は著しく、この間には新田開発も盛んで、延享年間(一七四四―四八)には村高六九七・六四四石であったが、天保郷帳では、七八八・四四八石となっている。

南畑村
みなみはたむら

[現在地名]三郷町大字南畑

信貴山しぎさん寺参道に沿う村。村域東部は信貴山寺門前町を形成している。南畑の地名は、天文九年(一五四〇)の信貴山文書に「北畑」とあるものの対語と考えられる。

文禄四年(一五九五)の南畑村検地帳(南畑区有文書)によれば、当時の村高は一六一・二三六石。同帳に「先帳高 百廿弐石八斗」とあるところから、これ以前に検地が行われたこともわかる。慶長六年(一六〇一)竜田藩(片桐且元)領、明暦元年(一六五五)幕府領、天和元年(一六八一)下総古河藩(堀田正俊、のち松平信之)領、元禄元年(一六八八)興留藩(松平信通)領、同六年に幕府領、同一五年に武蔵川越藩(柳沢吉保)領、宝永元年(一七〇四)一一月再び幕府領。

南畑村
みなみはたむら

[現在地名]大多喜町川畑かわはた

平沢ひらさわ村の北東、押沼おしぬま村の南、西畑川右岸に位置する。弥喜用やきよう村の枝郷。寛永一〇年(一六三三)の西之畠村々高割帳(君塚家文書)に南畠村とみえ、高六石余。元禄郷帳などでは弥喜用村枝郷の頭注付きで同高。明和六年(一七六九)の西畑二四ヵ村田畑名寄帳(野口家文書)では田五反余・畑一町一反余。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では高七石余、家数七。

南畑村
みなみばたむら

[現在地名]和歌山市南畑

名草なくさ郡に属し、和田わだ川の上流、山東さんどう盆地の南端にある。北は大河内おおかわち村で、那賀なが野上のかみ(現海草郡野上町)に向かう街道に沿う。古代末期から中世にかけて山東庄に含まれた。慶長検地高目録によると高四三三石余、小物成三斗四升七合。

南畑村
みなみばたむら

[現在地名]美里町南畑

野中のなか村の南の山中に位置し、西は飯盛いいもり峠を越えて坂本さかもと(現野上町)に通じる。古くは北西の安井やすい村の出村とされ(続風土記)、天保郷帳も「古者安井村之内」と注記して四四石余を記す。

南畑村
みなみはたむら

[現在地名]久米南町南畑

神目中こうめなか村の南東に位置する台地上の村。慶安二年(一六四九)同村から分村したという(作陽誌)。正保郷帳・天保郷帳では同村の内。元禄一〇年(一六九七)の美作国郷村帳では上神目南村とあり、脇に南畑とも記され、高二〇六石余。「作陽誌」に南畑村とみえ、家数四三、男一四八・女一一三。

南畑村
みなみはたむら

[現在地名]三木市口吉川町南畑くちよかわちようみなみはた

志殿しどの村の南、美嚢みの川中流の吉川よかわ谷中央部付近に位置する。慶長国絵図にみえる「福田村」は当村のこととされる。領主の変遷は大柿おおがき村と同じ。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報