北脇村(読み)きたわきむら

日本歴史地名大系 「北脇村」の解説

北脇村
きたわきむら

[現在地名]那賀町北涌きたわき

紀ノ川の南岸に位置し、東北は伊都いと西渋田にししぶた(現かつらぎ町)、西南は西脇にしわき村に接する。北涌村・喜多涌村とも記す。「続風土記」に「荘の北にあり故に北脇といふ、茶屋町又笹江町ともいふ、往還なり、川辺にて運漕等よろしく商家多く出来り旅舎ありて市街の姿をなせり」と記され、紀ノ川の水運があり、名手なてノ渡で当村へ渡る高野街道に沿うなど、交通の要衝であった。中世は高野山領麻生津おうづ庄に含まれた地で、紀ノ川の河港として早くから開けていたことは「御室御所高野山御参籠日記」の久安六年(一一五〇)六月八日条に、麻生津に宿をとり、翌日そこより船を利用したことがみえることによっても知られる。天正一九年(一五九一)九月二七日付の紀州南賀郡大津村検地帳(旧麻生津村役場文書)が残るが、内容は後の北脇・横谷よこたに両村分を記したもので、当村分のみの石高は不明。

北脇村
きたわきむら

[現在地名]日野町北脇

安部居あんべ村の北西、佐久良さくら川の北岸に位置し、北は瓜生津うりゆうづ峠で蒲生郡土器どき(現八日市市)に通じ、南の中在寺なかざいじ村との境にまる(二七〇・八メートル)がある。小字の十九じゆうく十九之下じゆうくのしたは古代条里の遺称とされる。北脇西遺跡・北脇遺跡・背戸山せとやま遺跡・奥池おくのいけ遺跡などは古代・中世の須恵器の窯跡であるが、現在のところ詳しい年代は不明。現神崎郡永源寺町藤切ふじきり神社蔵の応永二八年(一四二一)三月二八日の奉加記録に「一貫文 北脇」とみえる。

寛永二年(一六二五)徳川秀忠が長崎元通に当村の高八一一石余を与えている(東京大学史料編纂所所蔵文書)

北脇村
きたわきむら

[現在地名]高砂市北浜町北脇きたはまちようきたわき

一本松いつぽんまつ日笠山ひかさやま丘陵を隔てて牛谷うしたに村の南西に位置する。印南いなみ郡に属した。慶長国絵図には北谷村とみえる。江戸時代を通じて姫路藩領。正保郷帳では田方二三六石余・畑方七三石余。元禄期(一六八八―一七〇四)には塩田六町余があったという(増訂印南郡誌)。寛延三年(一七五〇)の村明細帳(高砂市蔵)によると、元禄八年塩田二町三反余が新畑に切替えられたため、塩田は三町七反余となっている。

北脇村
きたわきむら

[現在地名]清水市北脇・平川地ひらかわじ

吉川きつかわ村の北、ともえ川中流右岸にあり、北は北脇新田。元亀四年(一五七三)一〇月一四日の武田勝頼判物(大宮司富士家文書)に「北脇」がみえ、富士信通に与えられた所領のなかに当地の朝比奈彦四郎分二〇貫文がある。天正一〇年(一五八二)一一月二六日三浦弥一郎に安堵された所領のなかに当地の三貫六五〇文がみられる(「徳川家康朱印状写」譜牒余録)。寛永九年(一六三二)から幕府領、享保二〇年(一七三五)美濃国岩村藩領となり、幕末に至る(旧高旧領取調帳など)元禄郷帳では高一六一石余。元禄七年(一六九四)から東海道江尻えじり宿の助郷を勤め、役高は一六一石(「江尻旧記」など)

北脇村
きたわきむら

[現在地名]水口町北脇・日電にちでんささおか・さつきがおか

林口はやしぐち村の西にあり、主集落は東海道沿いに家並を形成。街道の北にやや離れて里北脇さときたわき柏木かしわぎ神社の社頭に馬場先ばばさきと称する集落がある。里北脇の集落が古くからの集落で、街道沿いに家が建つようになったのは慶長五年(一六〇〇)の東海道の整備以降である。なお当地の往還を北脇縄手と称した。中世は柏木御厨に属し、至徳三年(一三八六)一二月六日の沙弥正悟田地売券(山中文書)に「北脇縄手」とある。

北脇村
きたわきむら

[現在地名]巣南町古橋ふるはし

つつみ村の北に位置し、揖斐いび川とさい川に挟まれた平坦低地の輪中地帯に立地。慶長郷帳にみえる古橋村本村分が当村にあたり、元和二年(一六一六)の村高領知改帳によれば西尾嘉教(揖斐藩)領二九四石余、旗本大島光親領三〇五石余、同大島光俊領一〇一石余の相給。正保郷帳では北脇村がみえ、田二七六石余・畑四二五石。大垣藩領二三三石余(揖斐藩領のうち本家領が寛永九年幕府領となり、同一二年大垣藩領)、旗本西尾領六一石余(揖斐藩領の残り分)、旗本大島領一〇一石余、幕府領三〇五石余(旗本大島光親領であったが同家断絶で寛永一四年幕府領)

北脇村
きたわきむら

[現在地名]上石津町下多良しもたら

牧田まきだ川上流の山間の村で、北は淵上ふちのうえ村。元和九年(一六二三)の時・多良郷家付帳(西高木文書)に村名がみえ、家数四九のうち役人七・奉公人五、馬一九・牛八(子牛四)。寛永六年(一六二九)の徳川家光朱印状(市田文書)によると当村二八三石余が旗本高木貞勝(西高木家)に宛行われている。元禄郷帳では多良村とあるのが当村で、同氏領、高二八四石余。

北脇村
きたわきむら

[現在地名]南知多町内海うつみ

内海川の西岸、北部は八〇メートル内外の丘陵である。西の馬場ばんば村、南の中之郷なかのごう村と三村が入組み、馬場村とは東西に民家が連なる。「寛文覚書」によれば、概高四〇一石余、田地一七町二反六畝余、畑方一二町七反七畝余、塩浜五反五畝余、家数八〇、人口四〇九。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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