北条村(読み)ほうじようむら

日本歴史地名大系 「北条村」の解説

北条村
ほうじようむら

[現在地名]館山市北条

長須賀ながすか村の北に位置し、南北に貫く鹿野山かのうざん道に沿って街村を形成する。東の上野原うえのはら村と南の新宿しんじゆく町は当村の枝郷であった。近世初頭、里見氏による居城館山城の城下建設にあたっては当地も城下町に組入れられていたと考えられ、北条町ともよばれている。慶長一九年(一六一四)里見氏の転封により、当地は城下町ではなくなったが、引続き在町として栄え、鹿野山道の継立場(北条宿ともいう)としても機能していた。寛永一五年(一六三八)から正徳元年(一七一一)までは屋代氏が、享保一〇年(一七二五)から文政一〇年(一八二七)までは水野氏が北条藩主として当地に陣屋(北条藩陣屋、水野氏の末期には北条城)を置いている。また弘化四年(一八四七)武蔵忍藩の海岸警備の持場が安房国のみとなった折、同藩は村内つるに北条役所を設けている。これは備前岡山藩にも引継がれた。明治三年(一八七〇)には長尾藩が同所に陣屋を構え、この時の屋敷地の区画は今に残る。

「正木家譜」時綱項の注記によると、里見義豊が房州を治めていた時、謀反を企てた安西氏を誅伐した正木時綱は「北条城及山下郡」を与えられたと伝える。天正一八年(一五九〇)九月一三日里見義康は朝平南あさひな(北朝夷村、現千倉町)円蔵えんぞう院に対して「北条之郷海蔵寺分七貫五十代」などを安堵している(円蔵院文書)。慶長一一年七月三日、里見忠義は紀州高野山西門さいもん院に対して「北条村之内護摩堂屋敷十石」など、合せて一九一石を寄進している(西門院文書)。また同年八月一五日には、館山城下の商業発展を促すため、岩崎与次右衛門ら「楠見新井町・長須賀町・北条町」の商人中へ五ヵ条からなる触書を出している(「里見忠義法度」岩崎家文書)

北条村
きたじようむら

[現在地名]柏崎市北条・東条とうじよう本条ほんじよう

鯖石さばいし川の支流長鳥ながとり川下流域にある。長鳥川北岸を北条町方、南岸を在方と通称する。川に沿って東北方面に小島こじま村・山澗やまだに村・広田ひろた村、下流南岸に南条みなみじよう村、西方鯖石川対岸は安田やすだ村。寛文五年(一六六五)の北条町方検地帳(村山貫一氏蔵)によると、町方は家近いえちか村・新町あらまち村・七日町なのかまち村・八日町ようかまち村・道場町どうじようまち村が含まれ、町方五ヵ村とも称する。在方は同年の「北条之内」と頭書される検地帳(同氏蔵)では深沢ふかさわ村・赤尾あかお村・笹川ささがわ村・今熊いまぐま村・十日市とおかいち村・鹿島かしま村をさす。在方は天和三年(一六八三)の検地帳(柏崎市立図書館蔵)によると、兼則かねのり村・家則いえのり村・上光安かみみつやす村・下光安村が加わっている。

佐橋さばし庄北条の遺称地。文永七年(一二七〇)七月一五日の寂仏(毛利経光)譲状写(毛利家文書)によると、大江広元の孫寂仏が、その子時親に佐橋庄南条を譲っているが、この南条に対する北条である。応長元年(一三一一)八月二二日の専称せんしよう寺宛大江前丹後守(時光カ)寺領寄進状写(専称寺文書)に「佐橋庄北条下村内、金丸名」とある。寄進者は前丹後守大江朝臣とあって毛利時元とも考えられる。時元は元弘元年(一三三一)に専称寺の開基と伝え(白川風土記)、同寺の専称寺伝来過去帳にも元祖は時元の誤写と考えられる「守元」とあり、法号は「大乗院殿 慈阿弥陀仏」と称する。

北条村
ほうじようむら

[現在地名]筑波町北条

多気たけ山南麓に所在する筑波道の街道。村域には円墳の八坂神社やさかじんじや古墳、円墳五基からなる中台なかだい古墳群、布目瓦が出土する中台廃寺跡、多気城跡北条城跡などがある。江戸時代には北条内ほうじよううち町・北条中町・北条新町の三村(町)に分れていたが、「新編常陸国誌」に「新町、中町、内町ハ通ジテ古ノ多気邑トナリト云リ、後此三町ヲ併テ、北条村ト称シ」とあり、古くは多気邑と称し、常陸平氏本宗多気氏の本拠地であったが、多気氏没落後は小田氏の支流北条氏の支配地となった。また弘安大田文に「筑波北条三百四十八丁一段」、嘉元大田文に「筑波北条 三百廿三丁四反小」とみえるように、鎌倉時代に筑波郡は北条・南条に二分されていたが、当地はこの北条に含まれていた。小田氏の衰退後には佐竹氏の伸張の過程で、親佐竹派の真壁氏の進出があり、元亀三年(一五七二)の深谷家文書に

<資料は省略されています>

とみえ、天正一二年(一五八四)の同家文書にも

<資料は省略されています>

とあり、真壁氏配下の深谷氏の活躍がみられた。

北条村
ほうじようむら

[現在地名]大東市北条・北条一―七丁目・学園がくえん町・にしき町・北新きたしん町・明美の里あけみのさと町・北楠の里きたくすのさと町・中楠の里なかくすのさと町・南楠の里みなみくすのさと町・津の辺つのべ町・南津の辺みなみつのべ

現市域の最北部に位置し、北から東は南野みなみの(現四條畷市)に接し、南野との境に飯盛いいもり城で知られる飯盛山がある。東高野街道が南北に通る。西は深野ふこの池であったが、干拓後は深野北ふこのきた新田・深野新田となった。南は野崎のざき村。「河内志」に属邑三とあるのは嵯峨さが・北条・つじとされる。讃良さらら郡に属し、古代条里制の讃良郡四条・五条にあたり、条里制関係の地名が壱の坪いちのつぼから三十六さんじゆうろくまで一〇ヵ所以上残る。地名は正平三年(一三四八)正月の四条縄手合戦に関連する同月一二日付足利直義書状(薩藩旧記)に「佐良々北四条」とみえ、この「北四条」が詰まって北条となったものであろう。四条縄手の戦は、四条縄しじようなわてに前衛線を布いた北朝軍に、楠木正行の率いる南朝の前衛部隊が寡勢で突入し、激戦のすえ壊滅して終わったが、「醍醐地蔵院日記」同月二日条などにも記載があり、北条や野崎辺りが戦場となったことが知られる(→野崎城跡 四條畷市の→四条縄手合戦場

北条村
きたじようむら

[現在地名]飯山市大字豊田とよた

関田せきだ山脈中腹五輪峰ごりんみね(七九二メートル)の麓にあり、南は五束ごそく村、北は五荷ごか村に接する。外様平とざまだいら西側往還筋で、越後の小沢こざわ(現新潟県新井市)への道を分岐する。信濃国名所古跡高附絵図に「北条ヨリ小沢迄二里三十丁三十間」とある。五輪峰中腹の城山は、頂上の主郭のほか、北側小沢道側に郭六と空堀七、南側に郭三と空堀三がある。

建武二年(一三三五)の市河助房等着到状(市河文書)に信濃守護小笠原貞宗の催促により朝敵北条残党退治のため馳せ参じた市河助房ら一族が同年三月八日「於常岩北条致軍忠、令破却城畢」とあるのが初見。

北条村
きたじようむら

[現在地名]常滑市にしき町・北条・鯉江本こいえほん町・さかえ町・原松はらまつ町・陶郷とうごう町・千代ちよおか

南北に走る西浦にしうら街道沿いに集落が形成、東西に田畑が展開。南の瀬木せぎ村との境界は複雑に入組み、文政二年(一八一九)の村絵図(徳川林政史蔵)にも「北条・瀬木両村入(ママ)図」とある。「元北条村ハ瀬木村ヨリ出ルト也」(徇行記)とあり、瀬木村の枝郷として発達したらしい。北は多屋たや村で、西は伊勢湾。

北条村
ほうじようむら

[現在地名]北条市北条

立岩たていわ川河口部の南岸に位置する。東は中西内なかにしうち村、中通なかどおり村、南はつじ村、北は下難波しもなんば村に接し、西はいつき灘に面する。南北に今治いまばり道が通じ、江戸時代は辻村の一部とともに街村(北条宿町)として繁栄した。

慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)風早かざはや郡の項に「北条村 小川有」とみえ、村高は四一七石六升三合、うち田方三五一石二斗八升、畑方六五石七斗八升三合とある。元禄一三年(一七〇〇)の領分附伊予国村浦記でも同高であるが、天保郷帳では四八三石三斗九升三合と増加した。

「北条」の地名は条里制に由来するとも、また「予章記」にみえる「親孝北条大夫」の居館があったからとの説もある。中世初頭は河野氏の支配下であったが、承久の乱以後の様子は不明。

北条村
ほうじようむら

[現在地名]姫路市北条・北条一丁目・北条宮の町ほうじようみやのまち北条永良町ほうじようながらちよう北条梅原町ほうじよううめはらちよう三左衛門堀西の町さんざえもんぼりにしのまち三左衛門堀東の町さんざえもんぼりひがしのまち

飾東しきとう郡に所属。いち川下流の右岸に位置し、北は宿しゆく村、西は芝原しばはら村。南の南条なんじよう村とともに条里制にかかわる地名であろうと考えられている。大永元年(永正一八年、一五二一)五月、惣社(射楯兵主神社)の祭礼に農長(名主)北条平右衛門率いる北条村の農民六〇人が参加している(天正九年九月九日「惣社集日記」智恵袋)。天正年間(一五七三―九二)頃の北条村は家数一五〇余で、上・中・下に分れ、上村を農頭北条平右衛門、下村を北条三郎左衛門が治めていた(天正七年「播磨国衙巡行考証」同書)。慶長(一五九六―一六一五)の築城、城下町割に続いて、北条門の南から飾万しかま津まで運河が掘られ、当村の西部を貫通している。

北条村
きたじようむら

[現在地名]新井市北条

せき川右岸に位置し、北は小石原こいしはら(現中頸城郡板倉町)、南は吉木よしき村に接する。居村と通称順田じゆんでんの二集落からなる。直江津なおえつ(現上越市)から舟運の便もよく、関川沿いに信濃へ通ずる道もあり、古くから開けた地域と思われ、古代の条里制との関連地名との説もある。また村域内には開発の古さを思わせる小地名も多く、つくだ(佃田)、そうじめん(蔵司か雑司)があり、神社に関連すると思われる中八幡なかはちまん上八幡かみはちまん・八幡・石薬師いしやくし薬師免やくしめんがある。このほか小字二体五輪にたいごりんに鎌倉時代の五輪塔一基がある。正保国絵図に村名があり、天和三年(一六八三)の検地帳(水上村誌稿)には田方四五〇石七斗余・畑方一五石八斗余・色物四石八斗余とある。

北条村
きたじようむら

[現在地名]梓川村大字梓 北北条・南北条

本神もとがみ山の東麓に展開する山麓の村で、北は本神沢をへだてて小室おむろ村に接し、南は畑地帯続きで大久保おおくぼ村に接する。南北条と北北条の両集落からなる。初見は、寛永一九年(一六四二)の信州松本御領分村々高附帳である。北条とは「北村」の意で、中世の西牧にしまき郷が南条と北条に分れた時代の遺称かと思われる。慶安四年(一六五一)には田三町二段、畑四三町二段で、耕地の大部分が畑地であったことが知られる(信府統記)。山岸の畑地の広い村であったので、猪鹿が作物をあらす被害が多く、安永三年(一七七四)には鉄砲を二丁拝借したいと願い出ている(安永三年八月「鉄砲拝借願」中沢有斐氏蔵)

北条村
きたじようむら

[現在地名]豊中市北条町一―三丁目

小曾根おぞね村の西、天竺てんじく川が低地に入った地点の東側に位置し、小曾根村の枝郷(元禄郷帳)。中世は榎坂えさか郷小曾禰村に含まれていた(→小曾根村。文禄三年(一五九四)の検地で一二一石余(宝暦八年「村明細帳」今西家文書)。元和初年の摂津一国高御改帳では小曾根村一千八八五石余に含まれる。寛永―正保期(一六二四―四八)の摂津国高帳に村名がみえ、高一二一石余(幕末まで変化はない)。領主の変遷は小曾根村に同じ。宝暦八年(一七五八)の村明細帳によると家数一三、うち高持八・水呑五、牛三。

北条村
きたじようむら

[現在地名]立田村三和みつわ 北条

東は外大成そとおおなり村、北は後江ひつえ村に接する寛永元年(一六二四)開墾の水郷村。「徇行記」によれば、概高三八〇石余は一円蔵入地で、田は一五町三反四畝余、畑は四町六反二畝余。「寛文覚書」に戸数二一、人数一二一とある。「徇行記」は「農屋ハ和田村界ニ建ナラヒ一村立ノ所ナリ(中略)小百姓ハカリニテ貧村ナリ、卑湿ノ地ニテ悉畔田ナリ(中略)当村ニ持船三艘ホトアリ、其余借船十七艘ホトアリ、村人農事ヲ専務トシ漁事ナトハ生産ノ一助トハセス」と記す。

北条村
ほうじようむら

[現在地名]東予市北条

周桑しゆうそう平野の中山なかやま川の左岸にある低地で東はひうち灘に面する。北は三津屋みつや村と接する。条里制の遺構があり、集落は枡形を呈し、街路は直角に曲がっている。

慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)周布しゆうふ郡の項に「北条村」とみえ、村高は一千八七〇石四斗三升九合、うち田方一千七八八石九斗三升五合、畠方八一石五斗四合とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報