勝願寺(読み)しようがんじ

日本歴史地名大系 「勝願寺」の解説

勝願寺
しようがんじ

[現在地名]鴻巣市本町八丁目

鴻巣市市街地中心部、JR高崎線東側の線路脇にある。江戸時代には中山道の道筋に隣接していた。天照山良忠院と号し、浄土宗。本尊阿弥陀如来。寺伝によれば、鎌倉時代に浄土宗第三祖鎌倉光明こうみよう寺開山良忠が、檀越北条経時が寄進した箕田みだまつおか(現鴻巣市登戸)一宇建立、師の勝願院良遍の名を寺号としたという。良忠の著作の中に、良忠が足立の地での談義を弟子浄忍房が聞書筆録したと伝えられる「散善義略鈔」(通称「足立鈔」)があることから良忠が鎌倉に入る前にこの辺りで教化したことがあったらしい。

勝願寺
しようがんじ

[現在地名]総和町磯部

磯部いそべ集落西部に所在。鷲高山順性院と号し真宗大谷派。本尊阿弥陀如来。寺伝によると開基は建暦年間(一二一一―一三)の明性。明性はもと矢井太郎忠長と称し、武士であった。諸国行脚の折、当地の一堂で夜を明かした時、夢で阿弥陀如来のお告げがあり、稲田いなだ(現笠間市)にいた親鸞の教えを受け、寺を開き、天台宗延命えんめい寺と称したという。のち改めて真宗勝願寺となった。関東七ヵ大寺の一つと称され、蓮如と深いかかわりがあった。古河公方足利氏の帰依が厚く、関係文書がある。大永三年(一五二三)の足利高基禁制には

<資料は省略されています>

とあり、永禄二年(一五五九)の簗田晴助寄進状写によれば五貫文の寺領を寄進されている。

勝願寺
しようがんじ

[現在地名]函館市石崎町

海岸線沿いを走る国道二七八号の沿道にある浄土宗寺院。無量功山と号し、本尊阿弥陀如来。「渡島国地誌提要」によると函館称名しようみよう寺の末寺で、延享元年(一七四四)求道を開基として設けられた求道庵に始まる。「寺院沿革誌」は同人が明暦二年(一六五六)に建立したとする。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の勝願寺の言及

【関東十八檀林】より

…しかし最後にできた深川霊巌寺は24年(寛永1)の開山であるので,制度としての確立はそれ以降のことである。かくして成立した十八檀林は,開山の年代順に相模鎌倉光明寺,武蔵鴻巣勝願寺(埼玉県鴻巣市),常陸瓜連常福寺(茨城県那珂郡瓜連町),江戸芝増上寺,下総飯沼弘経寺(茨城県水海道市),下総小金東漸寺(千葉県松戸市),上総生実(おゆみ)大巌寺(千葉市),武蔵川越蓮馨寺(埼玉県川越市),武蔵滝山大善寺(東京都八王子市),武蔵岩槻浄国寺(埼玉県岩槻市),常陸江戸崎大念寺(茨城県稲敷郡江戸崎町),上野館林善導寺(群馬県館林市),下総結城弘経寺(茨城県結城市),江戸本所霊山(りようぜん)寺(東京都墨田区),江戸下谷幡随院(東京都小金井市,もと台東区浅草神吉町),江戸小石川伝通院,上野新田大光院(群馬県太田市),江戸深川霊巌寺(東京都江東区)である。学問所としての檀林はやがて幕府の寺院統制下で行政の一端をにない,一,二の変動はあったが宗教行政の中心となった。…

【鴻巣[市]】より

…赤見台団地の住民の通勤・通学者が増えたため,1977年北鴻巣駅が開業した。駅南方の名刹(めいさつ)勝願寺は関東十八檀林の一つで,境内には関東郡代伊奈忠次,《武蔵志》の著者福島東雄,俳人横田柳几(りゆうき)の墓がある。【新井 寿郎】
[鴻巣宿]
 中山道,武蔵国の宿駅。…

※「勝願寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」