出雲郷(読み)いずもごう

日本歴史地名大系 「出雲郷」の解説

出雲郷
いずもごう

出雲郷あだかえ付近から西の松江市域に比定される国衙領一説に「出雲国風土記」にみえ意宇おう黒田くろだ村・黒田駅(現松江市大庭町・山代町付近か)の地域などが再編成されたといわれる。郷内には風土記所載の意宇郡阿太加夜あだかや社があり、室町期以降阿陀加江あだかえなどとも記されたことから、中世郷としての存在がしだいに地名化し、出雲郷と記して「あだかや」「あだかえ」と称するようになったとも考えられる。

天福元年(一二三三)一〇月日の紀義季譲状(青木家文書)平浜ひらはま八幡宮(現松江市)の惣検校分田畠として「弐反出雲里郷、キク宇田」とある。建長三年(一二五一)八月日の出雲国司庁宣(千家家文書)によると、当郷内の惣社八月朔幣料田一丁が従来の助時の沙汰を改めて、その管理が国造義孝にゆだねられている。また同時に義孝は惣社造営のための料田三丁と惣社灯油田二丁一反の管理を任されているが、造営料田一丁は当郷内の厩田であり、灯油田七反も当郷内にあった。貞和二年(一三四六)一一月には出雲国目代幸松丸と田所により出雲里郷弁房跡二三丁三〇〇歩が平浜八幡宮の遷宮用途として寄進されている(「出雲国目代・田所連署寄進状」青木家文書)

出雲郷
いずもごう

和名抄」は「以都毛」と訓じ、「有上下」と記す。上出雲郷・下出雲郷の二郷に分割されていた。山陰道から移動してきた出雲地方出身者たちが住みついて形成した郷であり、神亀三年(七二六)山背国愛宕郡雲上里計帳・山背国愛宕郡雲下里計帳(正倉院文書)には出雲臣氏の名が数多くみえており、そのことが裏付けられる。上・下に郷が分割されたのは、賀茂川が現在のような流路となった時にその流路が旧郷の中に通ったためだともいわれるが、あるいは既に現在の流路となっていた賀茂川の両側に出雲氏が居住したために、律令国家がこれを上郷下郷に分割して支配したものか。

出雲郷
いずもごう

「和名抄」所載の郷。諸本とも訓を欠くが、イズモであろう。「出雲国風土記」によれば郡家の所在した郷で、天平一一年(七三九)の出雲国大税賑給歴名帳(正倉院文書)に出雲郷とみえ、朝妻里・伊知里などがあった。六戸の丈部臣をはじめ勝部臣・出雲積首・神門臣族・稲置部などが書上げられ、高年者七人・寡五五人・貧窮者八人などの賑給対象となる総数は八八人で、合計穀四三石四斗が支給されている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報