内記村(読み)ないきむら

日本歴史地名大系 「内記村」の解説

内記村
ないきむら

[現在地名]峰山町字内記

荒山あらやま村の北に位置し、東は小原おばら山系山麓竹野川右岸間人たいざ街道に沿う街村。この辺りで竹野川を挟む中郡平野が狭まる。集落の北側の丘陵に九基の円墳がある。

「丹後国風土記」逸文に記す羽衣伝説に、衣装を隠された天女一人が「亦、丹波の里の哭木なききの村に至り、槻の木に拠りて哭きき。故、哭木の村と云ふ」とみえる哭木の村の遺称地とされる。

慶長検地郷村帳には高二七一・六九石「内木村」とでる。峯山藩領。峯山明細記によれば、反歩は二四町九反一六歩(田一九町六反四畝二一歩、畑五町二反五畝二五歩)戸口は五三軒、一九七人(男八九人、女一〇八人)用水は竹野川から井堰四ヵ所をもって引水したが、このほか東に接する竹野郡吉沢よつさわ(現弥栄町)の井堰もあった。

内記村
ないきむら

[現在地名]海津町内記

萱野かやの村の東にあり、村の東から西に東大江ひがしおおえ川が流れる。北西馬目まのめ村。慶長郷帳・正保郷帳ともに村名がみえず、元禄郷帳には高四三二石余とあり、幕府領。安永四年(一七七五)の村明細帳によれば、高四〇四石余、田三九町余・畑一町余。家数八、男一五・女一五。慶応四年(一八六八)の村明細帳によれば、高四三二石余、田四二一石余・畑一〇石余、反別田四一町九反余・畑一町余、家数一八、男四五・女四三。明和四年(一七六七)村内に小堤の丈夫付普請を命じられたが、その土取場について馬目村庄屋に証文(伊藤文書)を入れている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報